頭を「からっぽ」にするレッスン
概要
元仏僧の筆者が、僧院での修行時代に学んだ瞑想での「意識の扱い方」について、丁寧に解説がしてある。
瞑想・マインドフルネスを学びたいなら、是非この本を読んで〜。
マインドフルネスとは
マインドフルネスとは、「今、ここ」に在ること、自分が今どこにいて何をしているかを意識すること。していることだけに100パーセントの注意を向けるということ。思考や感情に囚われてしまった時にそれに気づき、その瞬間に周つの対象に注意を戻すことを覚えているようにする努力。
本書で書かれていないけど、「今、ここ」に集中するには、メンタルだけでなくフィジカルの快適性もセットで考えるべきだと自分は思う。何か物事に集中するには、集中環境と操作性が最適化されているかどうかが重要。
手法
- 背筋を伸ばして、楽に座る。タイマーを10分間にセットする。
- 5回深呼吸し、鼻から息を吸って口からはく。
- 身体をスキャンして、自分の状態を確認する。目を閉じる。
- 息が出入りする感覚に集中し、1回ごとの感触やリズムを確かめる。吸った時に1、吐いた時に2と数え、10まで数える。このサイクルを5〜10回繰り返す。
- 瞑想終了後、20秒程度は心を楽にする。意識を身体が触れている部分に映す。そっと目を開ける。
時間帯は朝一番でやるのが一番おすすめらしい。姿勢は、あぐらをかくより、椅子に座った方がいいって書いてありました。本書によれば、最も重要なのは「導入」の部分。野生の馬になっている感情を、まずは観察し、集中できる状態へと解きほぐすことが大事。これを怠ると、瞑想をやる意味はあまりないらしい。
瞑想は1日のなかで唯一リラックスするための時間。私たちは終始何かをしていることに慣れすぎていて、何もしないことが退屈になるが、ただ1日10分間、心と体をリラックスさせる一方で、意識して「いま、ここに在る」という考え方に慣れる時間。
10分間瞑想の効用
元仏僧だけでなく様々な経歴を持っている筆者がサーカスの訓練でいつも言われていたのは、「自我へのこだわりを捨てろ」ということだった。それは僧侶の考え方と似ていて、一瞬一瞬の肉体の動きに意識を向けることの大切さと同じだという。
ピエロのレッスンでは、自分を馬鹿にし、リスクを冒し、いろいろためしてみて、失敗する能力に自信をもて、と言われるのです。手ぶらのまま舞台に上げられ、あれをしろ、これをしろと指示されます。…考えに沈む余裕も、ウィットに富んだ言葉で切り返す余裕もありません。ただそこに存在し、正直に自分をさらけ出し、何ができるかやってみるしかないのです。…大切なのは、ただ出ていってやることです。何も考えず、人にどう思われるかを気にせず、何らかの結果にこだわることもなく、ただやることなのです。
P19
人がミスをするのは、目の前のことに無心に取り組めてないことが原因であることが多いと本書でも書いてあるけど、この前togetterで見た「意識ですべてを制御しようとしすぎ」問題と酷似している気がします。
あなたがどう考え、感じるかについては、まず経験を形作るのが心そのものだということに気づくのが出発点です。だからこそ心のトレーニングが大切なのです。世界の見方を変えれば、実質的に自分の周りの世界が変わるのです。
P37
自問しなければならないのは、思考のうち有用で生産的なものがどれだけあって、無用で非生産的なものがどれだけあるかということだ。
P57
多くの人が全人生を幸福の追求を中心に回っている。次から次へと何かを追い求める一時的な「ドーパミン欠乏症」にかかり、頭の中で喋り続けている。だからこそ、頭をからっぽにできない。今ここにいることに集中し、頭をからっぽにする為には10分間瞑想のトレーニングが効果的である。
感情は「自分」と「世界」のフィルターである
過去や未来を悲観したって何の意味もないのに、悩んでしまうのは、過度に情報とストレスの洪水に蝕まれているから。今ある自分の身体に集中し、精神を集中する。誰に何を言われてもどうとも思わない、未来や過去をむやみにポジティブにもネガティブにも捉えず、そのままを受け入れる。隆起する事態を受け入れることが、最もシンプルに生きる秘訣。
自分の悩みだけに注目するのをやめて、他者の幸福にもっと目を向けることで、自分自身の頭の中の「からっぽ」が広がります。
P46
心をからっぽにすれば、相手のことを思うことができる。相手とのコミュニケーションにおいて、本質的に必要なのはファクトフルネスだけで良かったりする。事実以外のことを勝手に想像して、無駄に思考を巡らすことはあまり意味がない。
瞑想とは、ただ日々の心を写真に撮ること
瞑想を始める最初のステップのイメージは、自動車が往来する道路の目の前に座っているようなもので、生まれてくる雑念を制御しようとするのは、行き交う高速の自動車の道路の中に入って正面衝突しようとするのと同じ。感情を制御しようとするのではなく、道端に座ってじっと観察し、車の往来を見ていることに慣れることがまず大事。
自分が傍観者で、思念、すなわち車がゆきかうのをただ見ている存在ように感じること。道路に出ようとする機会が減り、思念が通り過ぎていくのをただ座ってみているのがだんだん容易になってくる。それが瞑想の過程である。
言い換えれば、庭にデッキを出して、流れていく雲を眺めるようなもの。時には雲の隙間から青空がのぞくこともある。何もしていなくても、ひとりでに起こっていくことを、そうやって雲を眺め続けていると、視界が開け、それまで瞑想で感じたことのない「からっぽ」の状態を感じることができる。心の動きは、チベットにいる「野生の馬」と同じ。暴れ馬に手綱をつけたって、言う事を聞かない。大事なのは、意識に動き回れるスペースを与えてやること。
自分の心の中に、つねに静かで穏やかで澄みわたった場所があるのを、いつでも帰れる場所があるのを想像してみてください。それは、人生にどんなことが起ころうと、落ち着いた安らかな気分でいられるということです。
P64
過去に読んだ「ネガティブを愛する生き方」にも、同じ考え方があった。
まずは、落とし穴を発見すること
感情は「状態」である。移り変わりが早く、そうとは気づかないうちにいつの間にか消える。ネガティブな感情を全て追い払おうとしてはならない。思考と同じく、重要なのはそれらの感情をどうやって迎え、どう反応するかである。
眠れないことについてさかんに考え始めると、理屈の上では、自ずとさらなる思考を生み出していることになります。…思考や感情に抗おうとすればするほど緊張が生まれ、その緊張が体にも伝わるのです。
P202
私たちが不安な気持ちを自分自身で煽ってしまうのは、通勤で何度も通ってきた道端にある落とし穴に、毎回落ちているようなもの。落とし穴が見えているのに、染み付いた癖で落ちるのを避けられない。瞑想を続けるうちに、早くから穴が見えて、避けるための行動が取れるようになる。練習によっていずれは簡単に穴を避けて、先に進めるようになる。
深い理解は勝手に、ひとりでに生まれるのです。…不快で嫌な気分になるからといって抵抗したり、分析に没頭することで早く去らせようとするのではなく、ただそれがひとりでに勝手なペースで起こるのに任せるのです。これらの体験は、基本的に心と体が長い間背負ってきた荷物から解放されていることだと覚えていてください。
P104