【映画】バーニング

  • ブックマーク
  • Feedly

バーニング

韓国映画の歴史が磨き上げた「結晶」とも言える凄い名作だった。今ならAmazonプライムで観れるので、是非ともご鑑賞頂きたい。原作は村上春樹の「納屋を焼く」らしく、観賞後に知って少し萎えてしまった…。

現代映画に顕著なのは、退廃的な平凡な日常にある「人生の飢え」の漂流を描く。人間の飽くなき欲求と、平凡な日常への絶望が渦巻く平凡な日常は、それ自体が面白い。居酒屋で男女の下心が渦巻く中、女の知性とは対照的に、パントマイム<=想像>の世界の詩的な表現が入る。このヒロインの女性は、この後のシーンでも詩的な表現の言葉を用いて話し続ける。

リズムに合わせて踊ります。最初は腕を地面に向けてリトルハンガーの踊り。これは、おなかが空いた人の踊り。踊ってるうちにだんだん腕が上がって空に向かいます。グレードハンガーの踊り。人生の意味を求める踊り。夕方の早い時間から夜中まで踊り続けて、リトルハンガーがだんだんグレードハンガーになる。

ヒロインはパインマイムを使ってないものをあるように見せようとする。主人公も小説家志望と言いながら、全く小説を描かない。モラトリアムに浸るだけで、現実と向き合わずに結論を先送りにしているだけ。近代主義によって産み落とされた亡霊たち。だから、ギャツビー階級にいるサイコパスに憧れてしまうのだ。

下宿先で性行為に及んでいる中、アパートに展望台から反射して入射するわずかな光を映す。光と影のコントラストを同時に映すのが技法として巧い。日常を生きることが、存在するか分からない「シュレディンガーの猫」に餌をやるのと同じだというメッセージなのか。

「田舎・都会、非モテ・肉食、知性・幼稚、純粋・暴力」、そのような対照的なモチーフの構成しかない。「格差」が今やアジア映画のキホン配列なのかも。そこに、田舎の純朴で美しい夕日と女体を組み合わせるシーンは、全てこの原則に従っている。格差社会と毒親問題は「万引き家族、パラサイト半地下の家族」。性的快楽とピュア男の精神的錯乱と暴走は「牯嶺街少年殺人事件」、復讐劇は「オールド・ボーイ」

光を映すには、影を強烈に描写すれば良い。善悪がテーマとなっている映画は、常に表裏一体の構造になっている。とすると、最近観たアジア映画は全てこの法則から分析できる。

韓国にはビニールハウスが多い。役立たずで汚くて目障りなビニールハウス。僕に焼かれるのを待ってる気がします。燃えるビニールハウスを見ながら、僕は喜びに浸る。

罪悪感が皆無のギャツビー階級にいるサイコパスが、この世界を創り変えてきた。自分の悦を満たす、結果にコミットするための冷淡さは、進化主義の観点から不完全を排除する。そして、それが正義だと身勝手な解釈をする。

この世には、自然の道徳=摂理しか存在しない。あとは、善悪の判断は人間が勝手に作ったフィクションでしかない。だから、ビニールハウスを燃やす。自然の摂理である炎は、華氏451度で本をただ燃やす。人間の社会システムにあるシガラミとは全く関係なく、これまでの歴史を全て燃やし尽くす。そして、そこには何もなかったかのように、新しい真っ新な土地となる。

自然の摂理が巡っているだけで、人生には意味なんてない。人生の意味を求めるグレードハンガーになっても、フィクションによる善悪を追い求めても、平凡な日常が淡々と続くだけ。平凡な日常と人間欲求を満たすために、地球は廻り、人間は虚構の中で踊り続け、最後には炎となり肉体は消える。