【読書】そこにある山 結婚と冒険について

  • ブックマーク
  • Feedly

そこにある山 結婚と冒険について

冒険家、ノンフィクション作家の角幡唯介@kakuhatayusuke)氏の新書を読んだ。ほぼ哲学書のような本だったが、かなり面白かった。

結婚は「事態」である

冒頭部分の書き始めの語調からは、「冒険家なのになぜ結婚するのですか?」という愚問に対して、その違和感の原因を探るまでの思考プロセスが示される。

つまり「あの人、とてもやさしいから結婚したの」と言葉で説明した瞬間、本当はもっと複雑な思いが重なり合った末での結婚だったのに、それらはすべて存在しないことになり、多層的な二人の関係は〈優しい〉という、どこか言葉足らずなひとつの原因に集約されるのである。

そこにある山:P8

筆者は結婚を「選択」ではなく、不可避な「事態」であると冒頭に述べている。それが、「なぜ結婚したんですか?」の問いに対する一般感覚への違和感であると。過去の自分が積み上げた上での遭遇であることは間違いないが、その大きな渦に飲み込まれた上での結婚は自由意志ではなく、「事態」なのである。

結婚には、言葉で説明できるような理論や理屈を超えた何かがある。この人と結婚したら経済的に裕福になれるとか、おいしいご飯を食べられるなどといった、表面的な説明を超えた何か別の要因に突き動かされている。だからろくでもない人物と結婚することもあるだろうし、何でこの人と結婚するんだろうと、どこか釈然としないまま結婚するケースもあるだろう。

そこにある山:P28

それはおそらく、私が結婚というものを自分自身の意思によって選びとり、かつ捨て去ることのできる選択肢として認識していたわけではなく、自分自身の意志とは別の大きな力、時間の流れによって発生する人生の事態のひとつだと認識していたことのあらわれだったと思う。自分の生き方に関係なく、結婚すべき事態が目の前に立ちあがった以上、私はその事態のただ中に身を投げ出さざるをえなかった。

そこにある山:P9

自分の意志ではどうにもならないこと=「事態が立ち上がる」という筆者の表現はわりと好き。道教にあるように〈無為自然〉に、あるがままを受け入れる受け身こそ最強の主体性だという考え方の人がしっくりとくる内容ではないだろうか。眼前に隆起してくる事態を受け入れるという態度は、自然体で好き。

人生とは、みずからの意思に関係なく降り注いでくる偶然の火の粉を浴びながら進むことなのである。

そこにある山:P41

この達磨大師の教えにも似た「不立文字」の論理はズルイ。言葉にすると不完全に成るという表現は、論理では説明不可能な神秘性を示唆した状態で逃走している。と、かく言う私もこの手法は嫌いじゃない。人間の自由意志や思想では抗えない形而上的・絶対的なナニカを信仰する態度に、救いがある気もする。

旅は虚無を埋める為

男は女性のもとにいる間には、どこか虚無があるという記述なんかは、腹を抱えて笑った。確かに男は束縛や支配する女性が特に苦手で、常に逃げたいと思っている人は本当に多い。

このように冒険家は行動しないではいられないのだが、それがなぜかといえば、冒険家は行動することではじめて自分を世界の中心軸に捉えることができるからである。行動せずに女の管理下に取り込まれてしまうと、彼の世界は消失してこの世に存在しないも同然になる。

男は妊娠・出産〈自然体験的活動(アウトドア)〉が出来ないから、虚無に陥りやすく、外の広い世界を求めるとあったが、わかるようで分からない感覚。これも自己納得させる為の突飛な論理に聴こえるが、生粋の冒険家の方は〈アウトドア〉が無いと生きていけないのだろう。ひきこもりが大得意の自分には理解し得ないのだが…。

「知る」こと

中盤でテクノロジーの進化による〈人間退化論〉の記述が展開されるが、自分はこの手の「アナログな労力と手間をかける方が良い」という発想に否定的な立場であるため、さっと読み飛ばそうと思っていた。この時点では。

人間の体はひとつの巨大な知覚受容体であり、身体で対象と接触することで対象にたいしての理解は深まり、それが関与や関係に発展する。…はっきり言って現代社会は何もしなくても生きていくことのできる社会に急速に移行しつつある。しかし何も行為せず、自分以外の何ものかと関わる機会をうしなえば、変化と発見がもたらす生のダイナミズムを経験することもできなくなり、人生は死ぬまで時間を引きのばしたおそるべき虚無の闇と化すほかない。

そこにある山:P64

多分、主張していることは日本民俗学の父である柳田國男の「現地調査主義」と間接的にはリンクしていると思う。冒険家や研究者は、現場での肌感によって知覚アンテナを研ぎ澄まし、関連する文献を隅から隅まで読み漁り、能動的圧倒的に自分で考えることが求められる。感じ、考え、何かを掴み、その時考えたことをアーカイブすることが「生きる」ことに繋がる。

ここで読み進めていて大変に驚いたのだが、筆者がノンフィクション作品を描く上で大切な「知る」ということについて、主観と客観を用いて説明が入る。この間から、自分が考えていたことを別視点でブラッシュアップされているような感覚に陥った。

事実というのは、二重構造になっており、誰でも知覚しうる表面にある〈子事実〉と、それらを生み出す本質的事実〈母事実〉がある。筆者の北極の例では、北極世界にいるのは、子事実においてはシロクマや橇にくくりつけた氷点下を示す温度計、母事実にあるのは、北極旅にはどこか死にまとわりつかれているようなぬったりとした不気味さ=主観によるもの、だと言う。

物体や状態をサイエンスとして分析しても、定量的数値〈子事実〉だけでは「知る」に至ることが出来ない。ただ、無数に存在する定量的数値〈子事実〉をもとに、本質的事実〈母事実〉を掴む必要があるとも本書では示している。これは、先に自分が書いていた「知恵のワークフロー」と同じで、客観的事実〈=知識〉から知的好奇心〈=興味〉が発生し、自分の考え〈=知恵〉をつくる考え方と似ていると勝手に思っている。

筆者の感覚を借りて思考を磨けば、定量的数値とか状態〈子事実〉から本質〈母事実〉を主観で思考する中にこそ、「知る」がある。見事に合成された現代社会において「知る」を働かせるためには、客観的事実から抽出する本質的主観を取り出す必要があるらしい。

体験から客観的要素を並べ、要素から抽出する自分の感覚〈アンテナ〉を研ぐ。この作業が柳田国男の「現地調査主義」と類似する手法であると、願いたい。なぜ自分がここまで「知る」について固執するかと考えれば、価値観を決定づける思考の根源が「知る」こと、そして他者と知恵による対話により創造される概念であるからだと思う。触れた出来事をどう解釈するのか、それは個人の自由意志によって処理することが出来る。それらを大切にしたい。

本質的であること

筆者は「極夜行」を行うため、毎年グリーンランドを北部を訪れているという。何度も極地を訪れている筆者だが、「なんのために旅をしているのか」と問われる事も多いらしい。

いったい何をやりのこしているというのか。やりのこしているというより、正確にいえばこれは、ひとつの旅が終わると、その旅の過程で次の旅の主題が澎湃(ほうはい)として浮上し、その新たな主題でこのグリーンランド北部をまた旅してみたいとの不可避な衝動が沸き起こってそれを自分でもおさえきれない、といった状態である。

そこにある山:P108

また、筆者は「生の実感」という言葉にも触れている。自分の行為に自分が本質的に関わるとは、どういうことか。

世襲貴族は富と特権を有しているが、その人生はどこか虚しい。…彼の人生を豊かにしているはずのその富と特権は彼が作り出したものではなく、あくまで彼の先祖が生み出したものだ。…彼は先祖が残してくれた〈巨大な殻〉に閉じこもって生きているにすぎず、自分の人生を生きているのではなく、他者が準備した役どころを演じているだけなのである。

そこにある山:P113

「生の実感」を得るためには、手間暇をかけて行為に対する関与係数を上げるとの解決方法が提示されている。だが、これは言葉の上っ面だけ取り出せば、「最適化思考」と相反する手段である。もしかするとここで自己矛盾するかもしれないが、関与係数と最適化を両立させたい。生の実感を産むための最適化、これはもしかすると落合陽一氏が提唱するデジタルネイチャーにヒントがあるやも…。

カタカタとキーボードを叩くだけで知り得る情報は5感に訴える情報力に乏しく、あくまでもそれらしい外郭を捉えただけで、本質を知り得ていない。巧みに編集された情報を一旦を得て、全てを知った気になっているだけだ。ザラザラとした手触り、臭い、温度、濃淡を感じてはじめて何かを「知る」という行為にまで達することが出来る。

ただ、ビジネスにおいては、「生の実感」だなんて雄弁なことを語っていられない。最適化手法を基盤としながら、本質を掴むために関与係数を上げる取り組みを時間対効果を見積もりながら、取り入れる感覚もあって良いと思い始めた。おそらく自分は「楽しい」と思うものにだけ、関与係数を上げれば良い。

それに、こうした原則論とは別に、自分で作った物で旅をするのは単純に楽しい、という感覚的な部分も大きい。手間暇をかけて自分の手で完成させた橇には、合理性や効率の良し悪しを超越した、数値には還元できない価値がある。

漂白という思いつき

テクノロジーの進化によって、対象に向かう志向性及び摩擦の消失を危惧している。摩擦こそが人間を人間たらしめる行為であり、不可避の摩擦とは「事態」であると定義している。

それが何かというと事態なのである。相手との関わりのなかで、私に制御できない状況が出来し、それが成長することで私は結婚するにいたった。この事態にこそ、結婚にかかわらず、あらゆる局面で人生をころがし、人格を変容させていく要因なのではないか。

そこにある山:P147

到達主義的な視点を脱却し、ローカルに根付く「生の実感」を掴み、関与係数を上げるアナログ作業によって、更に深く関わり、「知る」ことが出来る。自然体験的活動(アウトドア)を深く知る志向性のアンテナを保有しなければ、主体性は失われてしまうということだろうか。

私たちは理性や合理性判断だけをよりどころに人生の局面に処しているのわけではなく、その理性を超えた事態にのみこまれつつ生きている。そして、事態にのみこまれて行く先が予測不可能であるからこそ、逆にそれは人格の変化をうながし、それまでの自分を超えた新しい自分を生みだす契機となりうるのだ。

そこにある山:P176

この本を読むまで知らなかった「中動態」という言葉がある。古代ギリシャで用いられた「態」の1つ。よく、能動態と受動態との対立によって説明される。

20分で分かる:中動態 http://igs-kankan.com/article/2019/10/001185/

上記で詳しく説明してある通り、「する」か「される」かではなく、「内」か「外」かという概念である。筆者によれば、我々は「する」か「される」の自由意志によって機能しているのではなく、中動態の世界に生きているのである。これはかなり興味深い。

たとえば殺人事件のうち、本当に明確な殺意があって人を殺すケースは全体のどれくらいを占めるのだろうか。…殺す意志はなかったのに、その場の状況にのみこまれ、変状し、気づくと殺していたという場合がほとんどではないか。だとすると、これは中動態的殺人といえるかもしれない。

この文体を読んだ時、是枝監督の「万引き家族」が映像として脳裏によぎった。まさに中動態的殺人のお話であった気がする。

人生の固有度

筆者は40代以降、結婚や加齢に伴い外的自由が制限される代わりに、内的自由が生じていると綴っていた。歳をとるのが自分もコワイけど、過去の生産活動が生み出す未知であり不可避の、偶然であり必然である「隆起する事態」を受け入れることで、内的自由を少しずつ手にしたい。

自由意志や理性こそが、予定調和の中でしか生きれれない自分の足枷を作っていると。な〜るほど。

人生の固有度が高まると自由になる。それは、自分自身の固有的歴史、そしてそれにより今の自分があるということ、すなわち独自の経験に濃密な手応えを感じるようになるからであり、そしてその経験をもとに言葉をつむぐことができるようになるからだろう。自分の言葉で思考し、物事を語れるようになること。世界観が深まり、言葉を獲得すること。それが四三歳をすぎてえられる自由の正体だ。

そこにある山:P243

ちなみに、以下のインタビュー時には、「なぜ極夜の旅をしようと思ったか」と聞かれた際に、単なる好奇心と答えているが、これはまだ本を書く前なのかもしれない。筆者が極夜の旅にGPSを使用しない理由は、好奇心ではない。旅とは何かの答えも「システムの外側に出る」と言っているがこれも違う。現在の筆者が語るには、「隆起する事態を受け入れざる得なかった」のである。