日記

【読書】人間失格

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人間失格

昨年、蜷川実花監督作品「人間失格 太宰と三人の女たち」が小栗旬主演で公開されていたが、原作読んでねえ!と思って観れなかった。日本文学史上最高のベストセラーである本作が、なぜ日本人の心を投影している作品なのか、これはオプティミズムを基調とする海外の皆様方には全く理解出来ないだろう。

歪んだ自意識の在り方、個人の内側にあるpain、それらを造り出すトラウマ、実体のない精神の揺らぎが、この世界を創造している人間の霊にある。弱者の救済だけがテーマではなく、もっと本質的な、魂の内側にある人間の神秘性を文体から感じ取ることができる。

アイデンティティの喪失による個人主義の到来、そのような話は令和も昭和も同じ。いや、先を見れば見るほど加速度的に「信仰」というものが不安定だと予測できる。

虚無の精神性

人間失格は太宰自身の伝記的小説でもあり、太宰は幼少期に受けた不遇な体験から「境界性人格障害(BPD)」を持ち合わせており、結局は39歳で自殺してしまう。BPDが病気だと認知されておらず、社会問題化されていない時代である。

以前に読んだ「人格統合」では、どんな人間でも複数のパーソナリティ〈人格〉を持っていると論じられている。誰でも「人間失格」になり得るのだが、東洋の孤島に棲む我々は(当事者なので理解出来ないが)人格形成が特に異質なのでは…。

蟾蜍。

それが、自分だ。世間をゆるすも、ゆるさぬもない。葬るも、葬らないもない。自分は、犬よりも猫よりも劣等な動物なのだ。蟾蜍。のそのそ動いているだけだ。

悲観主義=〈ペシミスト〉の刹那と地獄の陽炎。この世に〈道化師〉として生を受け、不信と猜疑心の十字架を背負い、蟾蜍〈ヒキガエル〉と称する男の人生を描いているが、現代社会に生きる我々と同化する。蟾蜍の合唱を誦じているのは、我々も同じである。

何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんか無いんだという思いが、ちらと動くのです。と、同時に、人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わせなくても、それを拒む事も出来ませんでした。

日本人は孤独を愛し、他人と分かり合う・分かち合うことを苦手とし、相手のことを心の奥底では信用せず、「自分のことなんて誰も分かってくれない」といつも思っている(人が多い)そうして、その虚無〈ニヒリズム〉の精神性を文学作品として、崇高に、醜く、描いている。

互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間背の生活に充満しているように思われます。

この世界で最もコワイのは人間である。人間は妖怪なのだ。

ああ、この一軍の画家たちは、人間という化け物に痛めつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ。

写実主義を否定し、シュルレアリスムを肯定する姿勢だけは同意できる。背徳感から生じるリビドーは、若年層に許された「悦」である。嘔吐をもよおす愚かしさを認知しながら、それでも悲観主義の自分に酔い狂うヒトの性は、人間が人間たる故なのかもしれない。

美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、或いは醜いものに嘔吐をもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびに浸っている。

女性というもの

女性に対する艶めかしい文体は、ため息が出るほど、読んでいて言葉を失った。

女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら

女性というものは、休んでからの事と、朝、起きてからの事との間に、一つの塵ほどの、つながりをも持たせず、完全の忘却の如く、見事に二つの世界を切断させて生きているという不思議の現象を、まだよく呑みこんでいなかったからなのでした。

自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。…用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。

日蔭者

虚無であるからこそ、自分が無い人間の纏った霊感と同調してしまう。人間たらしめる背徳感の黒く儚い霊感の誘いが、世界を美しく魅せてしまうので、嫌いになることが出来ない。

自分は、生まれた時からの日陰者のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されているほどの人と逢うと、自分は、優しい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。

いっさいの附き合いは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐそうとして懸命にお道化を演じて、かえって、へとへとになり、わずかに知合っているひとの顔を、それに似た顔をさえ、従来などで見掛けても、ぎょっとして、一瞬、めまいのするほどの不快な戦慄に襲われる有様で、人に好かれる事は知っていても、人を愛する能力に於いては欠けているところがあるようでした。(もっとも、自分は、世の中の人間にだって、果して、「愛」の能力があるのかどうか、たいへん疑問に思っています)

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