【読書】さよならもいわずに

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タイミングは重なる

ゆっくりと久しぶりに本を読んだ。

この間、松尾公也というおじさんの話を綴ったが、亡くなる前の奥さんが闘病記を綴ったブログ(サラーマトの記)を読むと、生きることの意味をどうしても考えさせられる。

こういうのってタイミングが重なるみたいで、上野顕太郎さんの「さよならもいわずに」に自然と出会った。幸せな家庭を築いていた作者に突如訪れた妻の死、そして最愛の人との最後の日々を描いた作品だった。

本来なら後書きになるはずの文章が、物語の冒頭に綴ってあり、奥さんが亡くなった喪失感の中でネームを書き上げたことが分かる。冒頭から色んな感情が溢れて、何度も押し潰されそうになった。

大きな喪失感の中で、意味のなくなった世界の中で、作者の絶望だけが描かれる。最後に希望が少し垣間見えるのだけれど、そこまで読むのが耐えられないくらい、本当に辛い。

読了後にググって見たら、この漫画を出版した翌年に作者の上野顕太郎さんが再婚していた。なんと15歳くらい年下の女性と再婚している。その事実に救われて、すごくホッとした。

見えているものだけ見ると人は虚無に陥る

実存主義で学んだ「シガラミを外す」、「個を消す」ことがその思想と重なり合った気がして。現実ばかりを追っていることに、何か違和感を覚えているのは、私たちがいつも生きていることを前提に物事を考えていること原因なのでは?

寺山修司の劇中に、「見えているものだけ見ると、ヒトは虚無に陥る」というセリフがあったが、まさにこのことを示していると思っている。

自分がこの世界に存在しないことを前提に、全ての物事を考えることができれば、もう1つ壁を越えられるかもしれない。自分がここにいること、そのものが当たり前じゃなくて、またはそばにいてくれる人がいることが当たり前じゃなくて。

そういう世界から自然に今を見れるようになると、今自分が何をすべきかに集中できる。行動することが恥ずかしいとか、間違えたらどうしようとか、能力に対する劣等感とか、そういうものすら可愛く見えてきて。今、ここにいられることが素晴らしいと思うだけでいい。

この世界に存在しないことを前提として

自分がこの世界に存在しないことを前提にして、生きることに意味なんてないと認識するようになってしまったら、無理に誰かと関係性を維持する必要もないし、くだらないルールを守るために生活するべきでないし、つまりはもっと自由に生きていい。

等身大で生きていい。大きく見せようとか、カッコつけようとか、逆に蔑んだりする必要は全くない。

自然体をベースとして、自分のアタマで考えた幸福活動を追求していくだけ。それが出来ない環境なら、生きていることに何の意味があるのか?自分が存在しないことを前提にすれば、主体性を失った生き方に何の魅力も感じない。

「この世に生きていることが素晴らしい」をシェアするために、私たちは生きているはず。

うん、生きていいはず。

悲しみを乗り越えようとしない

「死を乗り越えようと思わないこと」あぁ…そぅか、松尾さんは自分の心の中に最愛の人を生かし続けているんだ。奥さんと一緒に生きているんだなぁ、と。多分、作者の上野さんもそうだろう。

死を乗り越えようとはせずに、そのままを受け止めるということ。それが1番難しくて。

日常でも仕事でも、クリーンにすることばかりを求めがちだけど、どうすることもできないこともある。どうすることもできないことを受け止めて、次のことを少しずつゆっくり考えるしかない。

乗り越えようとしなくていい。悲しみを抱えながら、生きてもいいのかもしれない。