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【読書】ひろさちやの「法然」を読む

投稿日:2018年8月26日 更新日:

【読書記録パート32】:ひろさちやの「法然」を読む

感想

読本のきっかけ

突然だが、現実の外周=認知している外側の世界に興味があって、シュールレアリスムや異化効果に興味がある。

無意識を仏教用語の九識では"八識(阿頼耶識:あらやしき)"と呼ぶ。そして、九識(阿摩羅識:あまらしき)は最も根源的な宇宙そのものが持つ究極の超意識(清浄無垢な意識)を意味するそうだ。女神転生Ⅲを愛する私にとって、阿摩羅識を収めないわけにはいかない。認知の外側や宇宙の超意識など、SF映画の世界観にも通ずるところがあるわけよ。

そんなこんなで毎晩お経を唱えている敬虔な仏教徒である我が父にそのような話を振ったところ、この本を勧められた。読み進めると、奇しくも最近日記にしたためていた内容とピッタリはまっている部分があった。

生き方など、どうでもいい

「もう、何事かを達成しようと達成できなかろうと問題ではない。
失敗しても問題ではなく、成功してもこれまた何にも意味はない。この地球にごく短期間存在している人類の中で、自分は最も取るに足らない小さな存在にすぎない」

人間はどうしても、自分の生きる社会の中だけで通用する価値を絶対のもののように受け入れ、それに従って生きていくのだけれども、それで本当の自由や幸せは得られない。いったい、人間にとって何が真に価値のあるものと言えるのか。

法然は身分や性別、現世での過ちは関係なく、誰もが念仏を唱えることで極楽浄土に往生できると説いた人。

念仏を唱えることは、阿弥陀さまの力によって極楽浄土に往けることのみに効果があって、現世の幸せを叶えるためのものではない。この本で初めて南無阿弥陀仏の意味を知った。墓参りで南無阿弥陀仏を唱えるのは、祖先の供養と身の回りの生活を見守ってもらうためだと認識して祈っていたが、そうではなかったのだ!死者のための墓参りではなく、あれは自分のため。これは認識が変わった。確認したところ、あれは祖先への応援歌らしい。極楽浄土で頑張って修行してくださいねっていう意味と、私を極楽浄土へ連れてってて意味合いの両方があるとのこと。

法然からすれば、この世の生き方などどうでもいい。あるがままを受け止めて生きていればそれでいい。現世は、極楽浄土に往生するための準備期間。

なるほど。今は試用期間にあるのだ。輪廻転生の輪の中にあって、浄土で修行ができるかどうかは阿弥陀さまが決めることであり自分は今をしっかり生きるしかない。

現世に執着せずに、この世に染まらずに生きていく。"人生は無意味である"という記述が出てきたときに実存主義とも結びついた。

浄土の世界から眺める

死ぬことは、浄土に往きて"生まれる"こと。

今の多くの日本人は、生きている間にしか、人生に値打ちがないと思っています。死んでしまえば価値がなくなると言うわけ。死ねばスクラップ同然で無価値ということ。

*モームの「人間の絆」より
「人生には意味などなく、人は生きることで何らかの目的を達成することはない。生まれようと生まれまいと大した意味はないし、生きようが死を迎えようが意味はない」

人の価値に差はない。世界中のどこで生まれ育って、どんなに生きても値打ちは同じなのだ。
そして、生きている間にしか価値がないと思うな。そうそう、現世ことだけしか考えずにこれまで生きてきたな…。

深層心理を収めた人たちが異化効果によって演出を始めるのは、あの世から現世を眺めるようになっているからかもしれない。価値観を向こう側におけば、この世に起こる全ての出来事は意味はない。

人を評価してしまうことは愚かな行為である。だけど、相対性の袈裟世界にあっては仕方のないことであるし、第一自分の感性は変えられない。

自分の存在など現世の地球の片隅にある小さな存在であり、人生は無意味だと解釈し、成功も失敗もどうだっていいという感覚を持っていることが救いになるかも。

自分で善と悪の度合いを決めることなど、奢った考え方なのだ。

阿弥陀様が選択する

阿弥陀仏が念仏の功を自然と積もらせてくれる、では引き寄せの法則に近い感覚があると思った。

その世界に没頭する日がいつか訪れる。その時まで待つことが重要。自分から動いて掴み取る姿勢ではなく、向こうからやってくるのをキャッチすればいい。

私たちは感謝の心を忘れずに、"念仏の功"のつもりで今を懸命に生きるだけでいいのだ。生を受けたのだから、"ついでに生きる"感覚を持っていればいい。

価値観をこの世の向こう側にあるお浄土の世界におく。そういうことになれば、この世の中で起こる出来事の1つ1つに意味はない。

仏教では「空」という概念を設定する。般若心境にある、色即是空の「空」である。空というのは、ものには物差しがついていないということ。

無意味なものに対して、勝手に意味付けを行っているというのが私たちの現実。その意味に執着してしまい、自ら悩みを増やしていくのが私たちなのである。

働いて定年を迎えると、そこには何もなくなってしまうことを危惧している自分がいる。社会的価値が無くなり、機能で評価されなくなってしまうから。そういう価値観はどうしても拭い切れない。でも、仮にそうなったとしても私を必要とするナニカが向こうからやってくる。

それに、ブログと創作続けてたらなんとかなる気がしてきた。

だから何も間違ってないんすよ。

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