【日記】国立国際美術館:ニューウェーブ現代美術の80年代

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場所

大阪の国立国際美術館へ行ってきました。北区の中之島に位置しています。
入館料は900円。めっちゃ安い〜。

外観/内観

外観

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自分が行った時は、「ニューウェーブ現代美術の80年代」という展示会をやってました。

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内観

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地下に展示室があるので、エスカレーターでB1へ。

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受付を済ませから、ロッカーへ荷物を預ける。

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もう既にワクワク感が止まらない。

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展示会場はB2F、B3Fにありました。900円のチケットを買えば、どちらのフロアも観れました。

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いざゆかん!とB2Fへエスカレーターに降りた際に、ここから写真撮影禁止!って係の人に言われました。

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作品と感想

音声解説

いきなり余談だが、音声解説は必須だった。B3Fの受付にて500円でヘッドホンの貸し出しがあったけど、アートにそこまで詳しくなければどの美術館でも音声解説の機材は借りた方がいい。
全部の作品ではないけど、展示してある中の数点について綺麗な声のおじさんが音声で解説してくれる。特に現代アートは意味不明な作品が多いので、作品解説あるだけでだいぶん助かる。ただ、感覚で作品観る人は必要ないかもね。

全体を通しての感想

“ニューウェーブ”という言葉は自分にとって、これまで”音楽”で親しみを持ってきた。

まず初めに連想するのが「ヒカシュー」や「P-MODEL」だが、幾何学的で人間の不安定さを表現する上で、美術と音楽は確実に相関性を持っている。80年代のバブル崩壊前後の日本列島全体の時代性は「高揚感と虚無感の2面性」を音楽でも美術でも表現している。好景気の高揚感に身を任せているが、このまま続くはずがないという虚無感が同時に存在していたらしい。”らしい”と言うのは、自分がまだ生まれていないので、実際の時代の雰囲気は分からない。ただ、分からないからこそ良い。

展覧会を回って80年代のムードを感じていくうちに、自分がオギャーと生まれた90年代以降の日本のムードについても考えさせられた。嘘で固められた80年代からの反省に基づき、現実を突きつけれた大人たちが90年代以降、どういう社会のムードを築いてきたか。

自分が育ってきた90年代以降から現代までの作品は、時代背景の「もうどうしようもない」というメッセージを投影している作品が多い。95年の阪神大震災、地下鉄サリン事件以降、言いようのない不安感や虚無感が日本中に漂っているように思う。誰も信じられない、何を信じていいか分からない、そんなルサンチマンに支配されたムードを感じながら生きてきた。だからこそ、今の若い世代は夢がない。その理由の1つとして、「もうどうしようもない」と思ってしまっているから、分からないものと分かりやすいものにコンテンツが2分されてしまったいるからだと思う。

特に近年、そういう社会風潮が蔓延していて、”みんなが分かりやすいもの”が量産されている。だからこそ、現代アートが今こそ必要だ。分からない/分かりにくいものを、どういう角度で、自分がどのように感じるかを大切にしなければならない。安易に分かりやすいものに囲まれて、そこにある正解ばかりを追い求めていては本質は生まれない。アートは自身の美的感覚を養うために必要なのだ。他人の目を排除して「自分にとって美しい」を探求することが、幸福論を考えるヒントになる。これはブログでも綴ってきた。良いか悪いか、ではなく、美しいか美しくないかが重要。

ただ一方で、現代美術は受け止めるのが難しい。むしろ、神格化された抽象芸術は、教養のない層の人間をバカにしている気さえする。哲学や思想を先んじて、デザインを一切排除しているものが多い。

そんなことを会場で考えていたが、結局は「それでいいのだ」と思った。分かることが全てではないし、コンセプチュアルアートだの、インスタレーションだの、何をどう表現するか、そしてどう受け取るかは個人次第で。まー言うたら、あんまり考えるなってこと。なんかいいなと思ったら、それでいい。そんなものかもしれない。