【読書】サピエンス全史

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サピエンス全史

内容

認知革命による信仰の始まり

7年前に人類〈=ホモ・サピエンス〉が『認知革命』により言葉を獲得して以降、集団生活を統制するための虚構(フィクション)を作り出した。虚構(フィクション)とは、民族であり、国家であり、貨幣であり、宗教であり、イデオロギーである。

神話の元祖であるギリシャ神話が多神教であり、古来からアミニズムを信仰してきたが、人類の統制を図る為には「一神教」を用いるのが手取り早かった。今やキリスト教・イスラム教が世界人口の多くを占めている。

イデオロギーの変遷

アダムスミスの国富論を経典とする『資本主義』は、財産を稼ぐこと=利潤追求こそが幸福だと信仰したが、貧富の差を拡大させ、労働者階級との格差と恨みを産んだ。

マルクスの資本論を経典とする『共産主義』は、財産を分配することで労働者たちによる平等な社会を築くことが訪れると信仰したが、労働意欲の低下を生み出し、ソ連共和国を崩壊させた。

ナチズムに見られる『進化主義』とは、優れた種族が劣っている種族を淘汰するのは自然の原理であるという優生思想を信仰したが、裕福だったユダヤ人を虐殺し、歴史上最も悲惨な出来事として、ドイツは今なお批判を受け続けている。その反省により、ドイツは難民問題を抱えている。

科学革命と幸福

コペルニクスの地動説を継承したガリレオ・ガリレイが、1992年に400年前の宗教裁判に逆転勝訴した。宗教への絶対信仰に綻びが生じ、ニーチェは「神は死んだ」と宣言した。産業革命以降に急速に発展したイデオロギー(資本・共産・進化)の信仰さえも、現存する我々が感じる漠然とした不安が証明する通り、その基盤が揺らぎ始めている。

人間は自分たちだけの都合の良い虚構〈=フィクション〉を作り出し、幸福を求め続けてきた。地球を制圧し、利潤を追求し、生産性を追い求めた結果、人間至上主義的自由経済は、人類に幸福をもたらしているのだろうか。

感想

ザーッと観たが、解釈としては「なぜ我々がアイデンティティ〈=信仰対象〉を所有出来ないか」が描かれていると思った。日本人は、GHQの神道指令で隠されているように、日本人のアイデンティティの核となるルーツさえも学ぶことがない。

この時代におけるアイデンティティの形成方法について、自分なりに思考してみる。多くの日本人が宗教観も持たず、衣食住にも困らず、テレビやネットからは情報規制された本質の見えない情報ばかりが流れて来る。そんなんだから、アイデンティティが形成されるはずがない。

前回、アイデンティティの迷路に彷徨う「邦人徘徊ゾンビ」について、記事を書いていた。一般的に「やりたいことがありません」って20代までに経験されるかたが多いと思うのだけど、自分は以下の方法で克服した気がする。

  • やりたいことを決めず、日記をつける。
  • やりたいことより、自分が得意なことをする。
  • 信仰とは何かを考える。
  • 客観的事実を狂うほどインプットする。

やりたいことを決めず、日記をつける

今やりたいことが、20年後も同じとは限らない。いや、5年もすれば、やりたいことが変わるのが人間。だから、今やりたいことなんて考えることがナンセンスでは。問題提起の仕方が間違っている。おそらく『やりたいこと』は、結論から解を導くべきでない。アイデアを出し続けるブレインストーミングの手法で試すべきと思う。

『やりたいこと』を手放しで考える前に、自分の思考を紡ぐ感覚を「日記」で養う。毎日考えることによって、意志の原石が研磨される。研磨された原石の純度が上がれば、必然性を伴った避けられない「事態」が目の前に隆起する。

やりたい、やりたくない、好き、嫌い…そういう次元で考えるから『やりたいこと』に悩み、アイデンティティの迷路に彷徨う。〈意志の原石〉を発見すれば、「なんだか自分でも分からないけど、やってしまう」説明不可能な状態が訪れる。おそらく、これがフロー状態と呼称されるものと推測する。

やりたいことより、自分が得意なことをする

蟹穴主義で生きる。『蟹穴主義』とは、資本主義の父:渋沢栄一の著書「論語と算盤」にあった言葉。蟹の巣穴はその甲羅と同じサイズであり、「身の丈にあった生活が大事である」という意味。

つまりは、自分の適性を理解すること。やりたいことより、自分が得意なことするべき。

信仰とは何かを考える

善悪とは何かを思考する。そして、何を信仰しているのを考える。いや、考える必要があるのか?を考える。哲学、宗教、諸子百家を体系的にインプットし、自分に合った思想を取り込むのが吉。数千年前から賢人らが信仰を考え抜いてきていて、答えは既に用意されている。

先の蟹穴主義を定義した上で、自分の信仰を理解する。

そんな自分の信仰といえば、例えば音楽から引用すれば、マイケルジャクソンの唄声を聴くと、全てが解き放たれたように心躍る。無条件に霊に響き、脳天に突き刺さる感覚が信仰であると思う。ジャクソン5時代のマイケルは天使…いや使徒である。

話がそれたが、文化でも、芸術でも、宗教でもイデオロギーでも何でも良い。だって本にあるように、これらは全て虚構〈=フィクション〉である。大事なのは、『信仰とは何か』を定義することである。

客観的事実を狂うほどインプットする

受動的な勉強のカタチを廃止して、能動的な学習スタイルを構築する。能力や成果を気にしない〈能動的学習〉を始める。人類の歴史及び思想を体系的に学び、マクロな世界観を持つ。自分の生きている時代は歴史の1ページに過ぎない。

『信仰とは何か』を定義することが出来ていれば、関連事項は全て、「適塾」のように狂うほど勉強する。インプットすればするほど、知識は力になる。知識は興味になる。知識は自分の価値観を変える。知識は、他者とのコミュニケーションに変革をもたらす。

というわけで、結局、アイデンティティ、つまりはやりたいことなんて考えない方がよいと思っています。でも、これはブログを始めたばかりの20代だった自分に説明してもあまり納得できない気もする。ほら、やっぱり5年前と比べて変わってしまうのが人間だべさ。

何も考えず、客観的事実を狂うほど勉強しよう。信仰と技術によって、不可避の『事態』を隆起させよう。天命に出逢えていないと感じるならば、それはただ単に学習が足りていないだけ。虚構で作られた興味深い世界を、何も知ろうとしていないだけ。