日記

【日記】タモリが語る「実存のゼロ地点」

投稿日:2018年10月15日 更新日:

実存のゼロ地点

講演大王にて

1992年4月4日に放送された「講演大王」という番組がyoutubeにアップされていた。タモリが自身の思想哲学のことを語っているのは珍しい…。

「会社の課長」「芸能人」「妻がいて子供が二人いる」「友達が何人いる」といった、現時点での 自分自身の“状況”を横軸とし、「親は医者」「家系」「叔父が不動産業界にいる」「子供が東大生」など、自分の周囲の人間が持つ“事実”を縦軸とする、と。
この横軸と縦軸のヒモが交差したものが「自分」であるとタモリは言う。

「そうやって自身を定義すると、自分というのは一体何か、絶対的な自分とは何か、っていうと、わかんなくなってくる。それだけこういう、"あやふやなもの"の中で自分が成り立っている」

そんな「自分」を成り立たせている横軸も縦軸も「余分なもの」であり、それを切り離した状態を、タモリは便宜上「実存のゼロ地点」と名付けた。

そしてタモリは「人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安である」というキルケゴールの言葉を引用し、それを解説していく。「自分で何かを規定し、決定し、意義付け、存在していかなければならないのが人間」であり、それが「自由」であるとすれば、そこには「不安」が伴うと。

孤独と紐

18歳~22歳のうちにシガラミのない「実存のゼロ地点」を体感せよ、とタモリは主張している。

ホドロフスキーが映画で伝えているのは、「裸になって権力や身分を捨てろ」ってことだし、Pファンクの創始者であるジョージ・クリントンが言うには、「人類は皆、アホでスケベで甘ったれ」だ。

何百年も前から「実存のゼロ地点」を表現している人間がたくさんいて、絵画表現としてはダダイズムやシュールレアリスムがあり、哲学としてはまさに実存主義や構造主義があって、仏教では色即是空であり、それらはすなわち内的世界の話だと思っている。

多くの人が「現実に直面することが正しい」と思っていて、それは間違いではないけど、「認知可能な現実しか観てない」とも言える。シガラミで雁字搦めになった状況は、「現実でもあり虚像でもある」のだ。タモリが言っているように、「有」でも「無」でもあるとはこのこと。

人間は自由という孤独に耐えられずに、どんどん紐の数を増やそうとするが、実際にはその紐を簡単に切ることができる。一般人であれば誰であれ、思ったより簡単に自分を定義していると思っていたヒモは解けてしまう。

死別、離婚、失職…etc。それを理解せずに、ヒモを結ぶ生活ばかりに執着していると、その時になって「自分とは何か」の問いに正面から向き合うようになるのだが、初めから「私」など有るようで無いと思う。

定年を過ぎて退職するまで、会社で偉い立場だった人が普通のおじさんになる。いや待て、初めから何者でも無い普通のおじさんなのだ。

肩書きや周囲との関係性によって自己を定義することがそもそも間違っている。どんなに足掻いても最終的に人間は孤独だ。孤独を埋めるために、安易に愛を求めるのは逆効果だ。孤独を利用せよ。孤独を上手に使いこなせるようになれ。そのためには、実存のゼロ地点に立ち戻って、シガラミを排除した"本能と好奇心"によって物事を観察し判断する力が必要。

タモリも禅宗との関連性を語っているが、瞑想の効果はここにある気がする。

「実存のゼロ地点」を理解するために、この1年があった気がしてならない。そしてそれは今までなんとなく思ってきたことの積み重ねでもある。

生き方とか、思想が面白いかどうかに視点が変わっている。そして、美しいか、美しくないかは全て"ゼロ地点"から観る必要がある。

孤独を感じる要因

①:外的要因による孤独

一般的には、他者との繋がりがないことを孤独の状態として認識されている気がする。
もう少し具体的にすれば、「自分が必要としている人間/社会から必要とされなくなったことを感じたとき」に孤独感が生じる。

逆から考えれば、興味のない人間やコミュニティから必要とされていなくても、特に孤独を感じることはないはず。

誰かにわかってほしい、関心を持って欲しい。だから、SNSが普及する。人と関わりたいと思うのは、人間の本質。
昨日まで知りえなかった、顔と住所も知らない誰かをフォローして情報共有できる時代って本当に凄い。

②:内的要因による孤独

これは前回記事の内容。「実存のゼロ地点」に立ち、本能と好奇心によって物事を観察し判断する力が必要。

均一教育と同調圧力によって育てられた私たちは"何がしたいのか"を探求しないまま、自分の立ち位置から見える世界視点を覗かないうちに、社会の時間に合わせて労働対価を受け取る人間機械にパッケージ化される。そして、何がしたいのか分からないが故に安定を求めて"シガラミのヒモ"自ら結んでいく。

肩書きを捨てれば、何者でもない"ただの人間"であって。だから、究極的には人間はみんな孤独だと思う。実存のゼロ地点を理解し、孤独を利用できるようになった上で、じゃあどう生きるかって話はこの間の記事に綴った。

前回記事を簡潔に言えば、「他人の目を排除した上で、この世界が面白いと思える視点」を心の中に持てていないわけよ。外的要因による孤独に焦点が合いがちでは有るが、実は内的要因による孤独が原因だったりする人も多いと思う。それに気づいていないから、さらに承認欲求を他人に求めてしまうわけよ。

何度も何度も言うように、教養を頬張って感性を狂わせるしかないと思っている。
自分が面白くないというより、あなたの世界の見方が面白くないのである。受け取ったり、切り取る力が不足しているだけ。

あと、もしかしたら世界のおもろい見方を教えてくれる大人に出会ってないのも原因かもしれない。
どうでもいいことで頭いっぱいになってしまったら、その心地よさから逃れられない。

打算的な結婚

年齢的にどうしても結婚の話になることが多い。

そして多くの人が自己防衛的に、世間の目をブロックするために打算的に結婚する人が多い気がする。これは横軸の紐を作るためだ。
…それならまだいい方なのかもしれない。結婚に夢と希望を持っている若年世代もまだ多く存在する。まさか、結婚して幸せになれるなんて思っているのか。

結婚してから孤独になる女性がいると聞く。打算的にパートナーを選んだ挙句、少し経ってから違和感を覚えるようになる。世間の目に焦点を合わせていると、何が大切なのか分からなくなってくる。

相手に幸せを求める結婚なんて、自分が幸福になれる訳がない。
内的世界を持ち合わせていない人ほど、相手に求め出す。結婚/恋愛だけでなく人との付き合い方の基本は「与えてもらうのではなく、分け与える」である。

表面的(世間的)には、所帯を持っていて幸せそうだったとしても、内面はボロボロ。むしろ、結婚してから孤独を感じてしまうと逃げ場がなく本当に辛い状況だと思う。
よくあるパターンが話を素直に聞いてもらえない。例えば、配偶者が男性に多い論理脳でYES/Noのどちらかを判断しないと気が済まないタイプだと、話づらくだんだんと心が疎遠になっていく。相手と美的感覚が合う訳ないのだ。感性はそれぞれ違うから。

話し手が相手に聞いて欲しいだけなら先に宣言するべきと思うし、逆に聞く側もその程度で話に頷く器量は最低限持ちたい。

結婚しても孤独には変わりがない。
1人でも寂しくない、または孤独を利用できる状況を作れること。それから、他人とどう関わるかを考えるべき。

結婚して時間が経てば、相手なんて空気同然の存在になる。それでいいのだ。空気は見えないけど、無くなったら生きることができない。
どう転んでも、その関係性にしか落ち着かない。それが幸せということ。シガラミを越えた関係であり、「実存のゼロ地点」として相手を認識できるようになったということ。

とにかく発信し続ける。

発信の習慣

えーーーーーーーーじゃあどうしよう。

「人から応援されるようになるためには、提供し続ける」しかない、と思っております。
そして、それに加えて無償の心が必要。誰からも反応がなくても、無視されても、否定されても、とにかく発信し続ける。これは、好意のある人と接する上での基本姿勢。与えることが全て。

コンテンツから刺激を受容できる環境であれば、発信し続けることは昔より苦しくはない。教養を吸収し続ける習慣はこういう意味でも重要。

*何を発信するか
気負わずに、好きなことを探求して好きなことを発信し続けるだけでいいと思う。
クリエイター気質じゃなければ、コンテンツの評論でもいい。ツールは言葉でも、音でも、写真でも何でもいいと思う。

*発信量と時間
何かを発信してきた総量はどれくらいなのかが最も大事。はじめは質より量だ。
また発信してからどれくらい経過しているのか。人に届くまでにはどうしても時間がかかる。数年、数十年とかかる場合もある。

レスポンスが返ってくるまで

誰からも応答がないのは、先ほどの発信量と時間が足りないことに加えて、「何かを提供できる技術」を持っていないだけ。無論、大抵の人間がそうなのだから。承認欲求に負けて機能価値を追い求めるぐらいなら、技術を持っていなくてもいい。必要とされなくてもいいと私は思う。
さらに価値をお金に変換したい場合は、PR論を学ぶ必要があるだろう。

孤独を感じる力があるなら技術を磨いては?孤独を感じる力が強いことは悪いことじゃない。

人を好きになることと、コンテンツを好きになる理屈は結構似ているところがあるような気がする。やりたかったらやればええんよ。最近50代以上の人たちにすげえ優しくしてもらってるけど、そのくらいの歳になるとそういう気持ちになるんだと思う。自分もそのくらいの歳になったら、自分より歳下で死んでる人を助けたいと思うようになる気がする。

ここまでの思考整理

いつも通り記事が長くなってきて、何を書いているのか自分でも分からない状態に達したため少し思考を整理。

・肩書きや周囲との関係性で"私"を定義しない。初めから私など有るようで無い。
・シガラミのない「実存のゼロ地点」を若いうちに経験する。
・人との付き合い方の基本は「与えてもらうのではなく、分け与える」
・外的要因による孤独に焦点が合いがちでは有るが、実は内的要因による孤独が原因だったりする。
・他人の目を排除した上で、この世界が面白いと思える視点を持つ。
・人から応援されるようになるためには、発信/提供し続ける。

シガラミが断たれる時

死別、離婚、失職、災害等によって、結んできたヒモがいつでも簡単に解けることを心に留めて置かなくてはならない。ただし、完全にシガラミを断ち切ることはできないし、ずっと孤独に生きていけるほど、自分は強くない。

多くの人はヒモが解けてしまうと絶望を感じる。もう一度結び直そうと奮起するが、多くの場合において自分の力ではどうすることもできない。また、自分からヒモを切る勇気がない場合、タイミングを計ったように向こうから勝手にヒモは解ける。どうやら、そういう仕様になっているらしい。

また、内的世界を発掘できずに、承認欲求の海に身を投じている場合、ヒモを結んで解けていく一連の流れに消費されているループに気づいていない人も大勢いる。

実存のゼロ地点に立つ必要性を学んだからと言って、"どうせヒモは切れる"なんて諦観の状態で終わらせてしまうのは、もったいない。そうではなく、あえて1本1本のヒモを大切にする生き方を選択する。

「望まないタイミングでシガラミのヒモが解けるとき、人は試されている」

解けてしまったヒモにどれだけ愛情を持てていたか。解けたヒモに愛情を持っていたなら、現状持っている別のヒモにその愛情を注ぐこともできるし、また別の新たなヒモを結ぶこともできるはず。
考えてみれば、これは引き寄せの話に似ている。実存のゼロ地点に回帰しながら、ヒモがやってくるのを待つ。良い状態で待つだけ。

実存のゼロ地点に回帰し、色即是空を内在させる。この世は常に変わり移ろいゆくもの、決して追ってはいけない。良い状態で時が来るのを待ち、眼前に現れた"つながり"と丁寧に向き合い、寄り添う。

フラストレーションを転換する。

だからこそ、孤独を最大限利用してクリエイティブにぶつけて、内的世界を構築しよう。実存のゼロ地点に立ち、本能と好奇心によって推進力を得ることができれば、新たなヒモを結んでもいい。

ヒモは簡単に切れることを理解し、人との付き合い方は「与えてもらうのではなく、分け与える」を基本姿勢として。

社会的ニーズを失った大人たち

この間、職場でお世話になっている50代の事務職の方と世間話をしていた際、「定年後何をするか」で悩んでいるという話を聴いた。事務職だから潰しが効かないし、特に何もしたいことが無いらしい。仕事一筋で頑張ってきたが、子供も手がかからなくなって、初めて自分のやりたいことについて考えるようになったと…。実際、そういう人って多いと思う。

話は変わるが、ジムに行くと60代以上と思われる叔母さまたちがエアロビクスに精を出している。運動は結構キツそうだが、終わった後に近くのファミレスで喋っているところをよく見かける。
カラダの健康も目的としているが、大きなメリットは「孤独を和らげる」ことにある。カラダだけではなく、他人と会話をすることでメンタルヘルスケアの効果があるに違いない。

双方に共通することは、「社会的ニーズを失った大人」であること。子供を育て終わって、誰にも必要とされなくなって、エアロビの叔母さんの中には亭主が他界してるような人もいるかもしれない。生活のほとんどが、1人で多くの時間を持て余すことになる。人は最後に、「実存のゼロ地点」へ帰着する。

誰からも必要とされない「シガラミを失った世界」で生きている。何を目的として、何のために生きるのか。それを考え続けて生きるのはしんどい。シガラミを失った世界で、1人で生きていくのは心が持たない。誰にも必要とされない環境に、人は耐えられない。
女性が長生きするのは、男性より孤独に強いからではないかと思う。

機械やAIが発達していくにつれて、1人で生きていくことが容易な社会になりつつある。1人で生活することは、誰からも干渉されず気楽だ。ただ、人間の幸せは1人では形成できない。自分以外の誰かと、思考や行動を分かち合うことによって初めて形成される。

だからこそ、シガラミを失った「実存のゼロ地点」を体感することが重要だとタモリも解いている。周囲との関係性を断絶して、自分の本質と向き合い、何がしたいのか、何と向き合いたいのかを突き詰めて、内的世界から幸福論の根幹を築くべき。外部からの刺激や、消費コンテンツや、他人の目を排除して、自分の在りたい姿を若いうちに少しずつ積み立てて置くべきなのだ。

ゼロかイチか

私も陥りがちの思考感覚だが、ゼロかイチかで解決策を練ってしまうことがある。これは、特に若年層に多い思考形態だと思う。

音楽、映画、美術、漫画から学んでいることだが、この世界には透明で純粋なモノなど極僅かしかない。全てがグラデーションで、不透明な関係性によって成り立っている。自分の性格や能力だってそうだし、自然界においても全知全能のモノなどない。あまりにも完璧を求めすぎている。

幸福を考えるのであれば、「ゼロかイチかで考えず、自分のことを大事にした上で、どうやって自分以外の誰かと、思考や行動を分かち合うか」がポイントだと思う。

誰しも話しやすい人もいれば、そうでない人もいる。好きな音楽もあれば、聞きたくないと思う曲もある。スポーツが得意な人もいれば、運動音痴だっている。それでいい。それが個性で、特に人と劣っている部分を大切にすべきだ。他人との比較は、自分を大切にするために使うべきだ。

実存のゼロ地点で物事を観察すれば、人より劣っているかどうかなんて無意味だ。仕事上の能力があるかどうかなんて、シガラミを失った世界では通用しない。自分に好奇心があるか、どうやって他人とシェアをして幸福になるか、そういう発想しかない。

自分が幸福なのは、どういうことをどんな人とシェアしているのが楽しいのか。それは人それぞれなのだ。まずは、その距離感を掴む必要がある。相手優先ではなく、自分を基準にして良い。自分が幸せじゃないと、他人は幸せには出来ない。

他人と同じ手法を取らなくてもいい、完璧にしなくてもいい。大事な人と、適切な距離感を持って、お互いが幸福感をシェアできる関係を維持できるならそれが最善策なのだ。他人に合わせない、ゼロかイチかで考えない。

せっかく、高齢者が多い地域なのだから、人生の先輩たちに学ばなければならない。自分がどう生きるべきか、どう在りたいかを心得ていれば、世界は切り開けるはず。もっともっと考えなくてはいけないし、学ばなくてはいけない。悩みすぎとか、そんなことはない。いや、悩めるうちにもっと悩むべきだ。心が病まない程度にね…。

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