日記

【日記】感性に狂え、教養を頰張れ。

投稿日:2018年9月9日 更新日:

100分de名著スペシャル石ノ森章太郎の回

あーわかった。
ガチでときめく感じなのは、分野に限らず「感性に狂っていて、教養を毎日染み込ませている人」だ。

昨夜の100分de名著スペシャル石ノ森章太郎の回で、島本和彦先生の石ノ森漫画に対するあの少年のような瞳、ヤマザキマリがさるとびエッちゃんに憧れて今でも動物や虫と話しているという話。

やっぱり、漫画家はコンテンツに狂ってる。特に想像力、感動力、熱狂力、モノの見方が常人とは桁違い。
前回の日記同様、これは「感性」によるもの。自然と教養を欲しているように見える。

想像力と、慈愛と、狂気の大きなエネルギーに包まれている。

どうすれば人は教養を欲するようになるのか。

教養を欲するために

単にコンテンツが「好きだから」という理由でもいい。ただこれは持って生まれた天性が不可欠。
生まれ育った環境も当然影響する。気づいたら手元にコンテンツがあった人と、何もなかった人とは感性が狂う確率がまるで違う。

では、天性や育った環境からではなく、後天的に教養を欲するようになるには?
そこにはどうしても"ネガティブ要因"が必要な気がする。世間を飲み込めない異物感を味わったり、コミュニケーションの問題にぶつかったりする事で、魂の救済をコンテンツに見出し、自身もクリエイターとしての道を歩む人が多い気がする。そう、内的世界の啓示を受けなくてはならない。

手塚漫画や石ノ森漫画は誰かの孤独に寄り添っている。それは、自身の体験、特に戦争体験に依存する部分が大きいのだという。

感性に狂って、教養を頬張ること。世間の目に同感できないこと、それに苦しむこと。

別に世界を変える作品を作らなくていい。そんな尊い存在になれるなんて思いもしない。
誰かの救済になろうなんて思わなくていい。そもそも人間は尊い、賢い生き物ではない。「みんなスケべで馬鹿野郎」がスローガン。

アホでいいから、感性に狂ってろ。まずは、教養は摂取しろ。

そういう生き方をこれからずっと継続できたらそれでいいや。作家だろうと、評論家だろうと、重要なのはマインドセットと生活態度だ。上手いとか下手とか関係ねぇ。

目利きと判別

教養を染み込ませるとは、数少ない覚醒コンテンツに刺激されることを指す。

アートまたは哲学を感じないものは基本的に麻酔コンテンツの部類に入る。ってことは、アートと哲学の下地が無いと判別は難しいかも。

まずは麻酔コンテンツと覚醒コンテンツの判別ができるようになること。
昔より、麻酔の数が圧倒的に多い。気づいたら麻酔コンテンツばかりに時間を費やすことなど容易い時代。

麻酔コンテンツに時間を費やしてもいいけど、一過性の心地良さだと認識しながら遊ぶ。

それだけでもだいぶ違う気がするなぁ。

しょうもないを社会批判へ転換

覚醒コンテンツずっと魅せられるのってしんどい。自分も無理だし、社会にも受け入れられない。

技術は高いのにやってることはクソしょうもないってことやりたい。わかってて全力でしょうもないことをやってる風になりたい。これは結局、ホーリー・マウンテンでも感じた現実なんてクソしょうもねえっていう流れに繋がる。
これは、つまり同一作品の中に聖俗の振り幅を大きくとる手法。「俗」としてやってることはしょうもない、だけど「聖」として技術や思想/美的感覚が背景にある、という構造。

やりたいことって、「しょうもないを究めることで社会批判をする」表現方法。だから、決して諦めではない。
孤独で惨めで、情けなくて、しょうもない生き様ほど格好いい生き物はいないと思っている。表現の世界では、底辺ほど光輝く。

白塗りマウント合戦に付き合っている暇ない。どんどんしょうもないことをやりたい。

グリッジな世界

アーカイブ化については、以前書き留めた通りだが。

もう1段階思考深度を落とすと、「未完のアイデアを習得した技術と一緒にアーカイブしておくことが重要」だと思っていて、その量を増やしていけば、それらを組み合わせ質を高めていくことで作品を生み出せるような気がする。
形になってなくてもいいから習得した技術とともにクラウド上に保存していく。ブログでは、言葉や静止画を用いて実行している。

ただ、私がやりたいことはやっぱり映像と音楽なのだ!
で、具体的にどんなもんを作っていくのか、の思考を少し落とす。

作画/作曲カテゴリーでは、映像に音楽をつけてvimeoに投稿していきたい。GIFの数秒で終わる映像でいいから、変なものを作っていきたい。

「綺麗なものを綺麗に撮る」のは当たり前で、これはみんなやってる。だから、そうじゃないものを撮って音楽をつけたい。

SquarepusherのBeepStreetのカバーをして思ったけど、私はやはりグリッジやアンビエントな雰囲気が好きらしい。田舎の寂れていて人間味のある美しい世界を、それらの表現を用いてごちゃ混ぜに描写する。

夕日とか、夜景のタイムラプスとか格好いい!って思ってたけど、わしが狙うのはそこじゃなかったわ。
もっとクソで、しょうもなく意味がないことに着目していきたい。

割合でいうと、麻酔:覚醒 = 9:1 くらいで作品化していっても全然ええ。初めから意味なんて自分で定義するべきじゃない。

⓪インプット → ①アイデア発現 → ②技術検索 → ③技術試行 → ④アーカイブ
思想も技術もレイヤー重なってる方がより深い

まじくそメンタル24時

失敗や憎悪によるフラストレーションを溜めて、芸術で昇華する。
普通に育ってしまった私にできる唯一の方法は、この手段しかない。もっと過酷な環境で育った人や、才能に溢れた人の感性には及ばない。

フラストレーションを溜めることは悪いことではないかもしれない。
蓄積すればするほど、狂気や憎悪から美的感覚を掬う事が出来るようになる。

凡人で生まれ、普通の家庭環境で育った者は、絶望的に辛いこととか、苦しい事が生じない限り、自分の心の中に神(アート)を宿すことはない。

それは、ある種では宗教体験に近い。
神を信じる必要はない、ただ人生のどこかのタイミングで「心に神を宿す」必然性がやってくる。それを逃してはならない。

イクニのインタビュー

インタビューで"想像力の欠如"を指摘している。想像力が足りないから、モチベーションを形成できない。

あぁ…なるほど。私が感覚的に苦手なタイプは、「想像力が閉じている=世間に依存している」ような人だ。
自己防衛のために想像力を使ってる人と対話した場合にも、モチベーションが下がる。

想像力の正しい使い方を知らない。
それはなぜって…。感性を育ててないから。教養を学んでいないから。

想像と妄想、そして創造。
好奇心を軸にして生きるためには、想像力が必要。この袈裟世界で生きるには、モチベーションが不可欠。

感性と教養さえあれば、世界を面白く見ることができる。自分に自信はいらない。感性さえ信じることさえできれば、それ以上は不要。

生きてたら楽しい賢者の人は考えなくていいと思うけど。
不条理感じてる人は、想像力高めるしかない。

オタク元年

生活のための機能価値はいらない。

情報処理能力だとか、論理思考能力とかコミュニケーション能力だとか、そう言った類の"機能価値"はもう追わない。「要領はいいけどつまんない奴」にはなっちゃいけねぇ。そこで終わっていいわけない。対話意欲削がれていると思ったら、早めに切り上げる。

必要なのは、感性と創造技術。

インプットの「感性」は教養が育てる。欲望、想像力、好奇心、狂気を自分で育む。
アウトプットの「創造技術」は毎日作業するだけ。ネットが使えれば大抵数年続ければ技術は向上する。

自分には教養が全然足りない気がする。ある意味"危機的状況"にあることがこの歳になって初めて分かった。核となるのは教養。それをキャッチする感受性。消費コンテンツに塗(まみ)れて、感性を育ててこなかった。というか、今まで必要でなかったのかもしれない。

同じものを見て、同じように感じてばかりいては「内的世界」は閉じたまま。
コンテンツにここまでの力があるとは思ってなかった。それに気づいてしまった2018年を「オタク元年」と呼ぶことにした。

まともがまともじゃなくなってきて、普通じゃないことが普通になってくると異世界が素直に受け入れられる。
そして、更なる深淵なる世界を見たくなってくる。これが人間の好奇心。

未完成でいい。とにかく小さいアウトプットを出しまくる。
最近、スプラトゥーン2の曲アレンジしたけどあそこまで凝らなくていい。

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