俺の家の話(第5話までの感想)
金曜ドラマの「俺の家の話」ですが、毎週録画して楽しく観させてもらっています。
脚本は宮藤官九郎、主演は長瀬智也、父親役に西田敏行、その他人気俳優と大人計画所属の俳優陣が囲む鉄壁の布陣による「クドカン劇場」は、どのドラマでもストーリー関係なく楽しめるのですが、今回は特に物語の設定とストーリーが秀逸。
主人公の観山寿一が、全盛期を過ぎたプロレスラー且つ日本の伝統芸能である「能楽」の宗家の出身である設定は、一見すると私たちの生活とはかけ離れたものに見えるけど、取り扱っている内容は「家族、貧困、離婚、詐欺、介護、学習障害…etc」といった現代人が抱える社会問題を取り扱っている。クドカン作品において、ここまで分かりやすく社会問題をテーマとして明確に切り取っている作品は他にないような気がする。
それに設定が奇抜でユーモアがあるのは、クドカン作品の常套手段であって、観客を本質に誘導するための「入口商品」でしかない。別のドラマと同一視をして、設定に対して「リアル感がない」と卑下するのは、お粗末なレビューだと思います。本質はそこじゃねえのです。クドカン作品は「深刻さをポップに魅せる」、みうらじゅん的なコピーライティングが上手い。
第4話から始まった「YES!子供だって能(NO)」という劇中のタイトルもしかり、ポップに魅せるコピーライティングが巧みな監督だと思っている。カメラを止めるなの上田慎一郎監督も同じく、このポジティブ変換へのスキルが高いのは、作品をのメジャーへ押し上げるための必須事項かもしれません。
演技表現とマスクの着用
当然ながら、ドラマや映画等の演技表現においては「演者の表情」が重要な役割を担っていて、本作品を観るまではドラマにおけるマスクの着用はご法度かと思っていた。
しかし、令和以前のマスクをしていない日常の描写は、過去の作品を観ていると既に我々の生活感には合致しない。例えば、外出時にマスクをしていない民衆の中を走る、ライブで楽しくモッシュをしている映像が、我々には「分断される前の過去の日常」にしか映らない。ポストコロナの令和の身体性の中には、公共スペースにおいて口元を塞ぐのが倫理観として根付いてしまっている。
不思議なことに、1話目には演技表現とマスクの着用に疑問が生じたものの、今では何の違和感もない。鑑賞者の「慣れ」なのか、何なのかは不明だが、マスクの着用がない身体表現が、素直に簡単に受け入れられた。ドラマにおけるマスクの着用はコロナ以前であれば違和感は拭えないのだろうが、いまや私たちには令和の身体性として適合し、違和感さえ覚えなくなった。
逃げ道を作ってあげるのは大人
現時点で最新話である第5話では、桐谷健太演じる観山寿限無にスポットが当たる。それまでも桐谷健太の演技が一際輝いていたが、ここまで凄い役者だとは思わなかった。そして、「ずっと逃げられなかったジュゲム」の描写は、自分の原体験をフィードバックさせるもので、心理描写を理解し易かった。
長瀬智也演じる観山寿一は、西田敏行演じる宗家観山寿三郎の嫡男であり、幼少の頃から叱られずに育てられた。そして、家業である「能楽の道」から逃げるように、プロレスの世界へと足を踏み入れた。つまりは、逃げ道を自分で作ることができた。一方で、とある理由から観山寿限無は逃げ道を作ることが出来なかった。この回に、自分の不器用さを重ね合わせてしまう。
子供に逃げ道を作ってあげるのは大人で、社会通念として積み上げられた山を目指す必要なんてない。逃げ道を用意してあげるのが、大人の役目。
家族や社会、そして人間は不完全なものであって、時代に求められる多様性によって変化し続ける。その変化によって、あらゆる問題が表面化されつつある中、それらにどう立ち向かって、或いはそこから逃げ道を作り、不完全さを肯定し、ポップに人生を生きていくのか。試されるのは社会と自分の関係性と、認知の指向性及び思想性の深度。
何をどう捉え、どのように関わるか。なんとかして乗り越えないといけない課題は山のようにあるけれど、昨今流行りのメディアの扁桃体刺激電波に負けず、自分サイズで関係性を見出していきたい。