【読書】華氏451度

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華氏451度

内容

レイ・ブラッドベリ著書のSF小説。題名は紙が燃える温度「華氏451度」を意味している。本の所持が禁止されたディストピア世界で、消防士が家事を消すのではなく、本を燃やすのが仕事となった時代を描いている。主人公のモンターグは本を燃やす「焚書(ふんしょ)」を行う『焼火士』として働いてる。というのが、世界観の設定。

自分が図書館で借りたのは、2014年の伊藤典夫訳の新訳版だったが、非常に読みやすくスラスラと黙読できた。これから借りるのは、なるべく新訳版が良い。

言葉だけが持つ空想性、形而上の神秘的な世界、フォーカスレンズのように心象の解像度を鮮明にする。流れるのような冷たいラップ調と、エレクトロニカのように繊細で暖かく浮遊する感覚が両立している。

こ…これがレイ・ブラッドベリの小説。なぜ今まで海外小説読んでこなかったのだと自省しながらも、こんなに楽しいコンテンツがまだまだ眠っている文学に少し興奮している。小説のカタチをした自己啓発本でもある。綴られる言葉が美しいが故に、言葉が響く。言葉は世界にある現実を説明する道具ではなく、言葉が現実を作る(言語論的転回)この感覚って少し怖くもある。

以下は、著書からの引用。

彼はクラリスの目のなかにおのれの姿を見た。2つのきらめく水滴の奥に黒く小さく浮かび、口もとの皺にいたるまですべての細部がそこにある。まるで少女の目が二つの菫色の琥珀となって、その奇跡のかけらのなかにそっくり包み込んでいるようだ。いま正面を向いた彼女の顔はこわれやすいミルク色のクリスタルグラスで、やわらかな光りをゆるぎなくたたえていた。P17

彼は自分のからだが熱い反面と冷たい反面、やわらかい反面と硬い反面、ふるえる反面とふるえていない反半面にひとりでに分かれ、それぞれの面がこすれあうのを感じた。P43

彼らは永遠に走りつづけられるものと信じて疑わない。しかし、そうはいかんのだよ。連中は、これが宇宙に華麗な火花を散らす巨大な燃えさかる隕石だということを知らん。いつかはなにかと衝突する運命にあることを知らんのだ。連中は、きみがそうだったように、炎しか、華麗な花火しか、見ておらんのだよ。P175

太陽は毎日、燃えている。太陽は”時間”を燃やしている。世界は円を描いて猛進し、軸回転し、時間は年月と人びとを燃やすのに忙しい。P235

感想

この本を読んで、真っ先に思い付くのは今「香港」で起きている思想規制についてだった。国家安全維持法が制定され、中国に対して批判的な言論を行っている人間を逮捕する事ができるようになってしまった。学民の女神とも言われる周庭氏を含む3人の若者が当局に拘束される中、日本人の若者たちはあまり関心がないように思う。

アジアの隣国で差し迫る思想弾圧を目にしながら、我々は自分には関係がないという態度でいる。日本は大丈夫、自分の生きている間にはそのような問題は起きないと他人事でいる。だが、本当にそうだろうか。「檻の中の自由」は、本当の自由と言えるのか。そもそも多くの人が檻に入っていること自体、気づいていないのでは。焚書どころではなく、本<=思想>の存在に気付いていない。知的欲求を失った家畜となってしまっている。

人間の進歩を築くための『合理性』による虚構〈=フィクション〉は、民族、国家、貨幣、宗教を創り出し、人類を統制した。「檻」とは虚構であり、構造主義であり、僕らが社会システムによって規定されたフィクションである。だが、その嘘から逃れることは出来ないのも事実。そして、今香港では本〈=思想〉が焼失し、暴力による検閲が国家権力の名の下に行使されている。

サルトルの実存主義では自由の刑に処せられているように感じるが、レヴィ=ストロースの構造主義から眺めれば、僕らはシステム(檻の中)でしかアイデンティティを規定し得ない。だからこそ、「私」の善は自由意志でありながら、相対的なものとしか定義出来ない。それが集団社会で生きる我々の、『檻の中の自由』という意味。

この本には毛穴がある。目鼻がある。この本を顕微鏡でのぞけば、レンズの下に命が見える。命が際限なく、ふんだんに流れているのが見える。一枚の紙の一インチ四方あたりの毛穴の数が多ければ多いほど、誠実に記された命の詳細な記憶が、より多く得られ、読んだものはより”文学的”になる。…細部を語れ、生き生きとした細部を。すぐれた作家はいくたびも命にふれる。P139

その『檻の中の自由』とは、例えば、結婚して3人の子供を育て、定年まで勤め上げるような『自由』である。ギャンブルはせずに、飲み会が好きで、浮気はしないような『自由』である。温厚な性格で、他人とのトラブルには巻き込まれないように生活する『自由』である。それとは、対照的な欲にまみれた『檻の中の自由』も存在する。なぜなら、「私」の善は自由意志だと規定しているから、そう思える。

パスカルは「人間は考える葦である」という名文句を残したが、香港のように言論弾圧されていない我々は、自己完結型のナショナリズムの檻の中にいることが、自由であるようで自由では無い。無機質なモニターから流れる広告に思想を支配され、幸福な虚構を見せられ、社会の歯車となり一定の給料を貰うことで、人生を謳歌する自由を与えられている。

資本主義システムの内側で、セカイ系の自己完結型のナショナリズムの檻の中に籠城し、言論統制もなく貧困に喘いでいる訳でもない。Devoの音楽的バックボーンである人間退化論<=De-Evlolution>は、退廃的な議論ではなく、犬の道へ突き進む邦人への皮肉と警鐘だと気付くべき。

「檻の中の自由」であることに安堵する態度は、牧場の中にいる餌を食べるだけの畜牛と同じ。闘い〈=本質>を知らない、知ろうともしない僕らに、幸福など訪れるはずがない。コロナ禍で分断される個人主義の先に、何と闘い、どんな思想を描くのか。他の人はどうあれ、自分は主体的に思考し続けるしかない。

思想を持てることが、どれだけ幸せなことか。中国の文化大革命などの混沌を学び、今一度自分の恵まれた境遇を再評価したい。