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【日記】無知の知

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無知の知

何が書きたかったかを考えてみれば、主観と客観について考察を深めたい話の続き。「私」が善とする自由意志を尊重する選択をした上で、他者との会話には「知恵」を積極的に活用したい。

そのように思った経緯を、長ったらしく綴ってみた。

徘徊する「邦人ゾンビ」

時代背景からそれとなく書き始めたい。平成=ネット黎明期から、瞬く間に令和=withコロナの時代に突入し、密を避ける直接的な対話の分断が生ずる中、個人主義の時代が殊更に加速していく。

その「超個人主義の時代」とはいえ、世間の仮面を被った何者かが「これからの時代はダイバーシティだ!」とか聞き慣れない言語を声高に叫び、次第にローコンテクストな対話構築を必要とする多民族圏の人々との強制的交流を迫られ、対話には常にアイデンティティ〈=信仰〉を求められる。

しかし、自分の意見を持ち合わせていない我々(日本人)は、失われたアイデンティティ〈=信仰〉の対象を拾い集めるために、彷徨い歩く邦人ゾンビの群衆となる。その「邦人ゾンビ」に自らが捕食されない為には、ある程度の「知恵」が必要になると心得る。

この記事の中で、アイデンティティを信仰という言葉に置き換えているのは、なんだか格好良いからという理由もあるが、生まれ育ったバックボーンが全く違う他者との対話に置いて、最も重要だと思うのは「信仰、そして善悪の理念」を知ることにある。この意味を、この記事が上手く書ければ、後半に繋げたい。

知識と知恵の違い

それでは、知恵とは何か。

知識は、ある物事について知っていること。 また、その内容。 学習や実験から得られた、誰もが事実として共有できるデータの集合体である。 知恵は、物事の道理を判断し、適切に処理する能力。

出典:違いが分かる辞典

というものらしい。この前、読んだ観た本で、自分の適性や思考の型について考えていたので、内部リンクを落としておきたい。

主体的に考えることというのは、客観的事実〈=知識〉をもとに自らの思考〈=知恵〉をつくる行為にある。

これまで自分の適性をかなり真面目に考えてきた結果、自分の武器は「内発的動機付けから生じる知的好奇心」にあると、ほぼ確信している。書きながら思うことは、そんな大それた話ではないのだけれど、自分には左から右へと視線を動かす際・耳を傾ける際に、何かしらの引っ掛かりを見つけ、興味として結び付ける才能があると勝手に思っている。

知恵を授かるワークフロー

では、全く知らない無知の出来事を、どうすれば興味として結び付けることができるのか。自分の意見が無いことについて、アイデンティティ〈=信仰〉を提示しながら対話を始めるには、どうすれば良いのか。

自分の意見が無い状態というのは、その以前に客観的事実の知識が圧倒的に不足していることが多い。例えば社会情勢について、パレスチナ問題、北方領土問題、英のEU離脱問題など、別に何でも良いのだけれど、そのような時事問題について問われた際に「意見がありません」と回答するのは、その問題が生じている背景を理解していないから。いや、統計をとったわけではないので異なる見解の皆様もいるはずだが、少なくとも自分の場合、意見がないというのは、前提とする知識を知らない場合が多い。

社会情勢に対する例えだけではなく、歴史、政治、文化、芸術、宗教、地域、学問…といった、この世を構成するあらゆるアイデンティティ〈信仰〉と自分を結び付けるには、まず持って「知る」ことから始まる。客観的事実〈=知識〉から知的好奇心〈=興味〉が発生し、自分の考え〈=知恵〉をつくることができる。言葉にすると、当然のこと(いちいち説明する必要はないの)だけれど、これが自分にとっては重要な「知恵を授かるワークフロー」だったりする。

前述した通り、私は「自分の興味として捕食する力」がある。一旦、知識の引っ掛かりをインストールすれば、後は内発的動機付けが半自動的に仕事をしてくれる。そういう謎の信頼感を持っている。これは、他の誰にも略奪されることのなく、ひっそり楽しめるから有難い才能である、と自分では思っている。

知恵による対話

思い出すため、定義を再掲する。

知恵とは「物事の道理を判断し、適切に処理する能力」のこと。

出典:違いが分かる辞典

その場の会話が盛り上がらないとか、意思疎通が出来ないというのは往々にして、話題が客観的事実の情報整理までに至っていない。他者が問題提起を空間〈フィールド〉に投げ入れた際、まずは客観的事実を提示して条件整理する所から会話は始まる。

例えば、「今日はカレーライスを食べたいよね」と家族で話をしていた際に、カレーライスがどんな食べ物かを知らない人がいるとしたら(いないけど)、対話は成立し得ない。客観的事実である「カレーを米飯にかけて食べる料理=カレーライス」を認知しているからこそ、今日のカレーの具材を何にするか、どこで調達すると安くて美味しいのか、という知恵による対話が可能となる。

で、こんな面白くない例を持ち出して、自分が何が言いたいのかというと、客観的事実を能動的に学ぶ必要があると思っている。カレーライスの例はあまりにも良くないが、これが先の「パレスチナ問題についてどう思うか」という問題提起に置き換えられたら、対話のキャッチボールが難しいと感じる人も多いはず。

事実に対する知識があって、初めて会話が成立する。そして、背景にある知識を理解した上で、初めて知恵による会話を行うことが出来る。

冒頭に記述した内容に戻りたい。アイデンティティ〈=信仰〉の対象を見つけ出そうと、彷徨い歩いている邦人ゾンビたちは、分かりやすい簡単な知恵を授かりたいと思っているが、そもそも客観的事実〈=知識〉から目を背けている。いや、背けているのではなく、教わらないといった方が正しい。先の社会情勢についてなどは、民族及び宗教間におけるセンシティブな問題であるために、教育機関では指導を避けているのがこの国の制度である。

この国の教育指導要領の中には、アイデンティティも含まれていない。アイデンティティの根源となる、善悪、宗教、精神といった形而上学を扱った分野は、学校でほとんど習う機会は無い。だからこそ、アイデンティティ〈信仰〉は自分で構築する他ない。

無知の知

実体験から察するに、人によるが、堕落論的に言えばアイデンティティに彷徨う〈=人間として堕ちる〉プロセスも、ほんまもんの自己救済には必要だと思う。アイデンティティの崩壊=「徘徊する邦人ゾンビ化」が転機となり、自身の主観主軸を何とするかを再構築することで、新たな自己存在を産み落とすメシアを内在化することが可能となる。これは、堕落した人間にしか理解し難い感覚かもしれない。

そのプロセスを体験出来たら、次は他者との対話でしかアイデンティティの変化は起き得ないような気がしている。原因を他者に追求せず、善の信仰〈=主観〉の相違を受容できるようになって初めて、対話による気負いが無くなる。自分の内側にメシアを内在化しているが故に、他者と善の信仰〈=主観〉が意見が食い違ったとしても、受け入れることが出来る。

だからこそ最近、「善の相違」によるフラストレーションが激減したのだと思う。この精神面のバッファリングは、対話に余裕をもたらし、同意や肯定を求めない緩衝地帯を形成した。これは、人間関係にストレスを感じることが多い自分にとって、大きな実利でしかない。

そして、今後はアクティブに「知恵による対話」によって、コミュニケーションをアップデートしていきたい。客観的事実〈=知識〉を取り込むことによって、内部で自動演算してくれる内発的動機付けに処理をお任せし、それから知的好奇心が抽出され、知恵による対話によってコミュニケーションを図りたい。

つまりは、もっと事実を学ばなくてはならぬ。哲学の祖ソクラテスがいうところの「無知の知」だ。知らないことを知ることから始めよう。

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