日記

【日記】馬耳東風と善

投稿日:2020年11月20日 更新日:

馬耳東風と善

「馬耳東風」という言葉は、以下のような意味らしい。

馬耳東風:人の意見や批評などに対して、それを気に留めずに聞き流すこと。

出典:Wikipedia

先日、主観と客観について少し考察したが、もう少し続きを思考したくなったけど、この「馬耳東風」の感覚がやっぱり重要みたい。

「私」の善

例えば、隣人の声が大きいと感じる場合、客観で判断すれば「声の大きさは◯dbの音量で、対象物から◯mほど離れた地点で聞こえる」となるが、主観で判断すると、「うるさいと感じる人もいれば、何も思わない人もいる」となる。

観測条件を一定にする場合、空間に生じている定量的事実は不変であるが、その現象をどう解釈するかは本人次第である。道教を少し学んで、無功徳の感覚を得て以降、以前より更に善悪に対して躊躇しなくなってきた。個人の自由意志である「主観」に対して、誰にも咎められる謂れはない。いや、そもそも善悪なんてものは、この世に存在しない。

つまり「客観は不可変であるが、主観は可変である」とも言える。これは、嫌われる勇気においては「課題の分離」、7つの習慣は「関心の輪・影響の輪」という言葉で、同様の思考法を示されていた。主観というのは〈本人がどう感じるか〉によるものなので、事象の捉え方については自由意志が存在する。

「私」が善とする行動を選択した場合、不利益を被った場合の相手が不幸と感じるかどうかは別問題で、課せられたペナルティを「苦」であるかどうかは受け手の主観による。つまり、「私」がこう言ったから相手が傷づいたかもしれないと推し量っても意味がない。人間の心が可変である以上、相手が今どう思っているか、また明日はどう思うかを断定・推定することなど出来ないし、コントロールすることは絶対に無理。

私利私欲に塗れた人物や、身勝手で意思疎通が拙い人間と接する機会があるけれど、以前より〈強欲な人間〉に抵抗感が亡くなった。彼らも自分と同じで、「私」に対する善(ex.誠意又は正義感)によって意思決定しているだけだと認知できるようになり始めている。

だから当然に、私こそ「私」が善とする思想の中で生きて良い。善の定義の違いによる対立があるのは当然であるし、主観に違いがあるからこそ人間社会は複雑で興味深い。善の信仰に相違があるからと言って、差別・侮辱するような関係性の人間とお近づきになる必要などない。

主観を最適化する

自分に必要なノウハウとして、主観を最適化することが他者より求められる。間違いなく「繊細さん」であり、良くも悪くも感受性が高く、プラスもマイナスもアンテナが常に敏感である。

この暴れ馬の敏感センサーを扱うために、主観を最適化していきたい。アクティブとディフェンス側の双方で主観を最適化していく。主観を最適化するには、エッセンスに客観力が不可欠であると社会人になってから実感した。

「主観の最適化」について、具体的方法を次回の記事で書きたい。

-日記
-

Copyright© あとは頼みます。 , 2020 All Rights Reserved.