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【日記】主観と客観の処世術

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主観と客観の処世術

記事のタイトルにもしている通り、「主観と客観のリアルタイム判別」について上達してきた。その意図と成果を発表させて頂きたい。

以下のことを書いた。

  • 主観は本人の自由意志であって他人が善悪を判断すべきことではないが、主観を社会に求めること自体が間違い。主観は同意すれば話が早いが、相手が面倒な場合は無視する。結論が必要な場での主観は、原則機能しない。
  • 主観と客観を使い分けると、他人との衝突が激減した。客観には事実を定量的根拠で提供する。人の話を聞く上では、主観→客観への誘導を意識する。

寄付金のお願い

よくわからないと思いますが、どうせ誰も見てないので続けます。

この前、窓際族の嫌われているおっさん(以下:窓際おっさん)は「わしは寄付金なんてのは絶対にしないぞ!」とわざとらしく無駄に大きい声で宣言されていた。別に窓際おっさんが募金するかどうかなんてどーでもいいのだが、心で思ったとしても声に出す必要がない。自分の道徳の低さを露呈する必要なんて無い。

この件は、窓際おっさんの「道徳」についてである。後にカテゴリー分けするが、おっさんのこの発言内容は主観に該当する。主観である「道徳」は、本人の自由だ。どう思おうが、誰にどう指図されようが、本人の自由意志である。(声に出さなくても良いという前提はあるものの)窓際おっさんがどう思うのも勝手である。

他人の意見を主観と客観に判別することは、無駄な衝突を避ける上で非常に役立つスキルだと感じている。他人との衝突を出来る限り避けたいなら、「主観には同調を、客観には事実を」提示することで円滑にコミュニケーションが進む場合が多い。

そもそも自分は「主観を社会又は他人に求めるな!」と考えている派閥。だから、主観を受け入れなくて良いし、そもそも議論すべきじゃないと思っている。主観は必ずしも同調しなくていい。相手が嫌いなら無視していい、議論するのは無意味。その理由を"主観的に"今から書きたい。

主観

荘子の説いた「万物斉同」という教えがある。

万物は道(タオ)の観点から見れば等価…是非善悪は存立の根拠がひとしくて同質的であり、それを一体とする絶対なるものが道である。

万物斉同:wikipediaより

という意味らしい。是非善悪なんてのは「当人の視点」でしかないから、分かり合おうとしたって無駄って話。人は自分の考え方と違う主張を拒絶するし、受け入れようとしない。でも、主観の場合はそれで良いし、そういうものなのだ。

先ほどから述べている主観というのは、例えば、「善悪、道徳、信仰、好悪、幸福観etc…」といった類の言葉を連想している。主観こそが本人の良識であり、他人が善悪を判断することではない。

先日、「LGBTばかりなると足立区は滅びる」という議員の発言が物議を醸したが、これはLGBTばかりになる可能性がほとんどないため客観的主張とは到底思えない。だから、主観的な言語であると定義する。主観的思考を公の場に持ち出すこと自体が頭が悪いのだが、逆を言えばこの議員の主観も同じように否定出来ないと思う。だって、主観なんだもん!そこに善悪なんて無いんだよ。ってのが道教の考え方であってるはず。というか、そもそも「主観を社会又は他人に求めるな!」と自分は思っている。

主観を拒絶しなくて良い話し相手であれば、主観の違いを楽しむことが、他者理解への第一歩とも思う。他人の主観を拒絶したり、批難するのではなく、「自分は理解できないけれどそういう価値観を持っている人もいるんだ」と認識して、その違いを楽しむ姿勢が、この世界を楽しむ上では必要だと思う。また、どうしても主観を主張したいのなら、アートで表現すべき〜。

客観

それに対して、「客観」はロジックと正解が用意されているため、正解を求める議論に意義が存在する。自分は、職場では客観的思考でしか対話をする気がない。

理論的に証明可能な、法則、科学、原理、現象を追い求めるモノは、事実が最重要事項であるため、(証明されていない現象以外は)ある程度の正解が存在する。

以前に読んだ、司馬遼太郎の「花神」という小説の中で主人公の大村益次郎の村医者時代の有名なエピソードがあった。大村益次郎とは、幕末期の長州征伐及び戊辰戦争での指揮官となった人物で、事実上の日本陸軍の創始者と言われる人物らしい。余談だが、エドアルド・キヨッソーネに描かれた大村益次郎の肖像画を見ると、異常に頭がデカイ。こんな人間はいるのかと思うくらい、とにかく頭がでかい。

ある日、村人から「今日は暑いですね〜」と挨拶された大村益次郎は「夏は暑いに決まっている」と返事をしたという逸話が残っている。その他にも、シーボルトの娘イネとの恋愛模様に垣間見える通り、感覚で物事を捉えることが非常に苦手である反面、大村益次郎は、医者となり、蘭学を習得し、設計図を自ら作って船を建造し、最終的には近代日本の陸軍建設を担うこととなった「スーパー理系日本男児」だった。

自分の周りにもこういうタイプがいるので何となく分かるのだが、このタイプは主観が一切通用しないし、そもそも主観的議論が非常に苦手だったりする。客観的な法則や原理については目を光らせて議論できるが、好き嫌いの話は全く乗ってこない。適当に雰囲気を合わせるのが苦手なので、同調を強制してはいけない。

客観に誘導する

相手が話している内容が、主観性と客観性どちらの要素が強くて、何を求めているのかを察する力って社会性が必要なこの世の中で非常に重要なスキルだと思う。

「主観と客観」をリアルタイムに区別する処世術として会得しておくと、議論可能なポイントを把握できる。先に述べたように、主観に対して客観的質問をするのは徒労に終わる場合が多く、主観的主張というのは基本的に同意を求めている場合が多い。逆に客観的議論に対して「善悪や好嫌」を持ち出すのは意味がないし、一時的に緩和材として用いられても、それらは議論の場で機能しない。

コーチング/ファシリテーションをきちんと勉強したことが無いけど、話を聞くってのは「主観⇒客観」へと議論のベクトルを方向修正する作業ではないかと思う。話し手の思いをブレインストーミングして発散させ、それがどの状態と比較して不満に感じているのか、理想とする状態とするにはどのようなワークフローを積み挙げるべきか、定量的判断が可視化される「基準の物差し」を持たせることが仕事。

理解できない物差しがないから感情的になりやすく、これが主観の渦に巻き込まれている状態。客観的なデータを示し、過去~現在~未来の状況を理解/予測することで、自分の位置や状態を理解し、そこで始めて自分で冷静に考えることができる。

感情的な人は「なんでこんなことをされるんだ-!」と怒り狂うが、事実から読み取れる客観的データが無い状態では、主観を他人に投げていることと変わらない。「主観」を結論が必要な場で議論することは徒労でしかない。

客観的判断を加速させるために、結論から議論を始めて、結論に至った経緯を簡潔に述べて、また打ち手をあらゆる方向から繰り出すのが問題解決のセオリーだと学んだ。

相手が専門分野のプロで、話の分かる相手であれば客観のみで議論すれば良い。それが早いし、問題解決に対するイシューをとことん議論できる。相手が素人で、また気難しい相手であれば、主観⇒客観のプロセスを意識する。このコミュニケーション手法の違いは、心得ておかなければならない。

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