【日記】篠原有司男夫妻

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エネルギーの根源

クレイジージャーニーで、篠原有司男夫妻のVTRを見た。
その時の感想を、描きたい。

揺るぎない信念と情熱だけで、そこに生活がある。いや、それでしか生きられないし、生きようと思っていない。
自分の哲学/価値観の核心がエネルギーを帯びていて、このような人達は、言葉に濁りが全く無い。

創作への畏敬の念と、無意識の混沌における自己没入によって、常に自分と対峙しているのだと思う。

最も強く感じたのは、「果てしない孤独」だった。創作とはやはり、ひたすらに自己対話なのだと。
他人の視点を排除して、精神と対峙した先にしかオリジナリティは生まれない。

やはり現代人は、「圧倒的に自己対話が足りない」と思う。SNS等によって、手軽に誰かと通じ合える土壌が生まれた。何もしなくても、情報に渦に流されて、虚像の満足感を得ることが出来る時代になった。

自己感覚を蔑ろにして、社会の提示する安易な答えに飛びついてばかりでいれば、篠原夫妻のようなエネルギーが内在する訳が無い。

エネルギーの根源は、常に孤独と向き合っているからなのでは?つまり、自己対峙を続けているからこそ、創作意欲が常に湧き上がるのではないかと感じた。

篠原が87歳になった今でも毎日スランプだと言っていたが、何万回とトライ&エラーを繰り返しているのだろう。その先にしか、作品は生まれない。自分と対峙することによって、自分で現状の最適解を見つけて、試行錯誤を繰り返すしかない。

当然に、これは創作だけを指している訳では無い。生き方そのものの考え方のお話。

ロジックの、その先に。

バイタリティと生きることが同義であり、生きること自体が芸術活動であって。生きることは、エネルギーに満ち溢れていること。

我々は毎日仕事で数値によって認識可能な、合理的な最適解を探している。しかしこれは、社会基盤の構築には必要不可欠な作業で、社会の秩序を保つにはロジックが要る。だから、それを否定する術を持ってはいない。

だけれども、さっきも書いたように、生きるとは原始的な活動なのだと思う。五感で世界を捉えながら、RAWの感覚で今を生きることを大切にしなくては。

現代は、理論に支配され過ぎている。社会最適解とされる”正論”を振りかざせば、表情の無い民衆が一堂に頷く風潮に、とてつもなく違和感を覚える。

ロジックのその先を目指さなければ、人間は個人の幸福を追求できない。

“正しみ”ばかりに囚われていては、情報で溢れる社会の餌食になるだけだ。

ご褒美は他者承認

自己と向き合うことは、辛い作業だ。
誰にも答えを教えてもらえないし、答えを提出したところでそこには自己満足しかない。

去年の感覚と違うのは、だからと言って自分ひとりで全てを解決しようとは思わないこと。孤独=自分と向き合う作業には、他者からのご褒美がエッセンスとして必要とも思う。

他者から承認を貰うことは、唯一の救いであり、またご褒美でもある。そうやって、また自己対峙を続けていくその先にしか、幸福追求はできない。

VTRを見て、そのように思ったわけ。