日記

【日記】主体性を奪還する

投稿日:2019年2月19日 更新日:

自分の発言は通らないという思想

スパルタ教育の弊害。

日本はこれまで、同調圧力の思想を強要してきたと思う。それは生き方が今より限定されており、志を均一にして社会成長させることに照準を定められていたのが原因なのだろうか。昭和〜平成までの時代は、「努力と根性、そして我慢をすること」に美意識を置いていたのかもしれない。

努力/根性という言葉を聞くと、「自分ができないこと/嫌いなことを克服するために鍛錬する」ような先入観が私にもある。私自身も学生時代に運動部に所属し、「スポ根思想」に基づくイッパシの教育を受けてきたと自負している(いいか悪いかは別として…)

同調教育とは、"我慢"を染み込ませる教育である。つまりは、自分で考えさせないための教育とも認識できる。教室で黙って当てられるまで教科書にじっと目を通し、部活でも軍隊教育を軸にした生活を強いられ、自分の心地よさを優先するようになるはずがない。自分のアタマで考えたことを素直に表現する場は、学校生活においては皆無に等しかった気がする。

協調性を育むのは確かに必要だけど、周囲と良好な関係を築くことを優先しすぎるがあまり、自分の思考をストップするべきではない。どのような組織に属していても、フリーランスであっても、自分のアタマを働かせて問題解決をすることに注力すべきである。忍耐とか、我慢とか、そういう類はとにかく問題解決に向かない。目的が問題解決にあっては、ノイズの要素となり得る。

相手傷つけない言い方さえ心得ることができれば、問題解決のために言葉や態度を躊躇する必要はない。むしろ、躊躇してはいけないと思う。問題解決を第一主義に置くのであれば、躊躇している場合ではない。自分が間違ったら、素直に謝ればいいだけ。歳上であることが偉いとか、知識を持つことが偉いと思っている人は、謝ることができない傾向にある。みんな間違って当然なのに…。

自分の発言がその場の雰囲気にどう影響を与えるとか、無知が恥ずかしいとか、意見が通る/通らないとか、そういう視点は少しずつ排除しよう。自分の心地よさに素直でありさえすれば、言葉は自然と湧き出てくる。自分の心地よさに素直である=他人を大切にすることであることは以前に何度も書いたので省略。

知っているのがエライだなんて。

知識があれば偉いのか?

10代〜20代の多くの時間を「自分の考えを言っても無駄だ」というルサンチマンに支配されていた。同調圧力による教育によって、自分の心地よさを優先することが疎かになってしまっていたことが原因だと思う。自分の心地よさよりも、その場の雰囲気の方にプライオリティを置くような感覚に縛られていた。

プロジェクトの合意形成を得る意思決定には、ソースと論拠が必要。「意見がない状態」は、知識不足によるところが大きい。全体像が把握できていない、作業見積とプライオリティの順位に検討がついていないために、現在の課題の要素について言及することができないだけ。つまりは、知っているか/知らないかだけ。

発言できないことを理解力が足りないだとか、アタマが悪いで判断する愚者がいる。全てこの世から抹殺されれば良いと思う。知らないことが当たり前で、その状態からどうやって目の前のタスクを処理するか?が本来のアタマの良し悪しだと思っている。経験値を積むことが悪いとは思っていないけれど、経験値による仕事の処理しか出来ないおっさん達の方がよっぽどアタマを使っていない。

情報の整理やボトルネックの処理の仕方に汎用性を持たせ、効率的な対応をしているかが重要。具体の仕事ばかり追って、その場限りのタスク処理をしていても、別の仕事に対応出来ないのはアタマが悪くないですか。

自己主張って何だ?

話は少し変わって、「自己主張」というコトバを間違って解釈している、古いタイプの人間が近くにいないだろうか?「そもそも、自己主張って何?」って話は、以前に綴ったことがある。

*「良く分からないから発言できない」でいい

ここは意見が分かれる部分でもあると思うけど、自己主張なんていらないと思っている。「自己主張」の言葉を履き違えている人ほど、自己顕示欲が強く、自分はこうしたいを主張するために、プライオリティの低いタスクへソースと論拠を集めてくる傾向が強い。

むしろ自己主張を捨てて、プロジェクトの処理スピードを上げることだけに専念すべきだと思う。自己主張しろ!と叫ぶ人に限って、アナログタスクを軽減する考え方が徹底されていない。

自己主張が強制される必要はない。知識がない人に自己主張しろ!って言うのではなくて、知識を補って意思決定のスピードを補助する役割を担うのが先人の務めであるように思う。

「良く分からないから発言できない」で正解。知ったように喋るより、知識のないことを聞かれても答えられなくて当然なのだ。迂闊なことを言えないと思う方が正直な人間で、自己主張を無理に身にまとう必要がない。ただ、それは知識がないだけ。組織のイデオロギーを背負ってしまっては面白くなくなるから、世間的に語られる自己主張なんて捨てようや。

*自分のアタマで考えるを許す

私は、他人に説教など勇気がなくて出来ないし、自分が出来ることといえば多分それがくらいで。むやみやたらに自己主張しろ!を唱えずに、どうやったら意思決定ができるようになるかをサポートできる人間でありたい。

自己主張は強制されるものではなく、自然発生的に発現するもので、知識さえあればプロジェクトについて言及できるようになる。スパルタ教育の弊害によって、自分の心地良さに素直になれないようコントロールされてきた我々は、まずは「自分のアタマで考える」を許すことから始めよう。

部下には自己主張しろ!なんていう前に、プロジェクトの負担を軽減し、本人が主体性を発揮できる環境を整えてあげよう。

コーチングのお話

モチベーティブに自己学習できる環境

積極的に嫌われたくはないが、取り繕って同調するばかりよりは、嫌われたほうがまだマシだと思っている。

実存主義の効果は絶大で、相手がどんな人間であろうと、どんな雰囲気を帯びてようが動じなくなってきている。知識があるとかないとか別に関係なくて、どんな環境であれ自分のアタマを働かせている状況が1番大事だと体に染み込ませてから、相手が誰であれ自分の心地よさを優先できる。

主体性を奪還する上で、やらされているとか、誰かに怒られるからとか、世間的にそうなっているからとか、そういうのは排除していかなくてはならない。特に問題解決を考える上では、我慢とか、忍耐とか、そういう言葉は切り捨てる。

モチベーティブに自己学習できる環境を整えるだけ。努力は主体性を起源としなければ機能しない。何かを作業する場合に、主体性は全ての根源であり、モチベーティブに活動できるかどうかは主体性を持ち合わせているかどうかに起因している。プロジェクトのボトルネックを解消して、処理スピードを上げるための情報を端的に渡すことに専念すればいいだけ。これは、コーチング全般に適応できる考え方だと思っている。昔読んだ本にも同じようなことが書いてあったような…。

スイッチは自分しか押せない

やらされるのではなく、自分のアタマで考えて行動できる素養を身につける状態になること。要は、本人の主体性を引き出すことが重要で。

ただし、そのスイッチは本人しか押すことができない。いくら作業フローを簡略化しても、情報のプラットフォームを整えても、個人の主体性が内側から発現するかどうかは本人次第。最終的に個人が主体性を持てるどうかは、自己学習できる状態と意欲を、自分で創り出すことにある。

やりたいことも、やりたくないことも、自分の心地よさに素直になってから決定する。なんとなくモチベーションが上がらないとか、やろうと思わないけど仕方なくやっているという状態を極力減らしていく。

私は仕事を別角度から眺めるようにしている。仕事をしなければならないのではなく、暇つぶしの延長線上で、自分のアタマを働かすための場として利用している。
(ただし、例えば人の命を預かったりするような別の仕事であれば、その思想は全てに適応できるわけではないとも思う)

主体性を育むために

協働をつくるための主体性

問題解決って実は非常に汎用性の高いスキルで。感覚的な話を抜きにすれば、問題の多くはどこかにボトルネックが存在していて。つっかえているボトルネックを外したり、タスクをオートメーション化することによって、物事が上手く回り始める。それを考えられるかどうかは、頭が良い悪いじゃなくて、考えるための環境とツールが揃っているかだと私は思う。

仕事でも家庭の問題でも、どの作業部分がその人にとって負担なのか?、それはなぜなのか?、どうやったら解決するのか?、その作業フローは?ってのをフレームワークとして、要素別に考察を切っていくだけで全体像が見えてくるもの。その解決の糸口を一緒に考えることがコーチングであり、協働の基本だと思うんですよねぇ〜。

自分でも結構大事だと思っていることで、主体性を育むためのメタ要素を以下に記す。

*主体性を育むメタ要素
・環境(ノイズキャンセリング)、ツール、作業フローを整理すること。
・抽象化された問題解決/改善のフレームワークを自然に使えるようになること。
・アーカイブを抵抗なく、素早く実行できるようになること。
・自分の苦手を認識して、代替できる手法を用いること。

怒りは何も生まない

怒るとアタマの働きが鈍くなる、だからなるべく、怒りのボルテージを高めたくない。

ノイズキャンセリングを徹底することが大事。なんか嫌だなって思ったら、出来るだけその場から外れる。その場から離れられないなら、自分事として考えない。

生きているだけで非常に多くのことにノイズを感じてしまう。音、光、熱、人の感情/言葉遣い、その他様々なことでノイズが発生する。それは私とってノイズであり、他の人にとってはそうでもない場合が多い。

自分のアタマで考えるをプライオリティの最上位に掲げていれば、怒りの感情は必要ない。相手に分かってもらえないとか、向こうが聞く耳を持たないとか、こっちの話を聞くそぶりがないとか、そういう状態であっても自分の姿勢を変えないことが重要で。

以前の職場で、趣味がファシリテーションという歳上の"Iさん"という人がいた。お茶目で、良い意味で自分の思考を優先している人だったなぁ…確か、高学歴だった。

*ファシリテーションが上手なIさん

職場にクレーマーが現れたとき、Iさんは率先して1人でクレーム対応をされていた。「なんで1人でクレーム対応をするんですか?、誰かと2人以上で聴いた方が良くないですか?」とIさんに質問したところ、次のような回答をされた。

「クレーム対応は1人で充分、他の人に時間を使ってもらうのが勿体無い。それに、クレーム対応ではファシリテーションの技術を試しているだけだから、逆に誰かが付き添っていると邪魔なんだよ。」

その回答に、面食らった覚えがある。通常クレーム対応を1人でするのはしんどいと感じる人が多いと思うのだけど、Iさんはファシリーテションの試用運転のためにクレーム処理をしていて、それには1人の方が都合が良いのだと。Iさんのファシリテーションにかかれば、最初は怒鳴りこんで事務所に入ってきたおっちゃんも、最後には笑顔になってスタスタと帰って行ったのを覚えている。

Iさんの場合は、ファシリーテションを使ってどう解決するかを考えていて、つまりは自分のアタマで考えるを優先させているだけ。だから、相手が高圧的な態度であっても、意味不明な言葉を投げかけてきても(クレームおっちゃんは裁判してやる!!が口癖だった)、関係ない。Iさんに言わせれば、自分のファシリテーション技術を試すことを優先しているだけだった。確かに、Iさんは最初は相手の話を聞くことに集中している素ぶりだったけど、途中から問題の本質がどこにあるかを突き止め、ファシリテーション技術を使うことだけを考えていた。

私もIさんから学びたい。相手からどんな態度を取られても、どんな言葉を投げかけられても、怒りの感情をこみ上げる必要はない。また、怒りの感情がこみ上げるのは、相手が話を聞いてくれないとか、結局は自分の思い通りにならないことが原因なこともある。少し極端なことを言えば、相手が話を聞いてくれるかどうかなんて関係ないから、自分のアタマで問題解決に取り組めているかどうかに集中すればいいと思う。それくらいが私には丁度いい気がする。

だからこそ、(話し方には気をつけた上で)言葉に躊躇しない。思ってないことは言わないし、嫌なことはちゃんと嫌だという。

ノイズキャンセリングを徹底して、自分のアタマで考えることがやっぱり重要なんです。

主体性を奪還する

自然体を受け入れる

いろいろとあーだこーだ書いてますけど…。

他人の思想を排除して、自分の幸福をきちんと考えること。それを死ぬまで実行し続けること。それだけやと思う。

自分の幸福がきちんと定まってないから、ノイズキャンセリングができない。何をしていると心地よいか、どうやって生きたいかが明確にあれば、それ以外のノイズはどうでもよくなってくるはず。

主体性を奪還するとは、自分のために生きること。

構造主義で考えれば、個人は地球上の極僅かな点にしか過ぎないけれど、実存主義から眺めれば、誰だって本質のままに生きるべきだ。スケべで甘ったれな私たちは、自分のために生きていい。誰が偉いとか、能力があるとか関係ないし、そもそも生きることに意味なんてない。

他者の言葉によって、自分の思考を止めさせてはいけない。自分がここにいるのは、誰かと意見を交換する中で、より良い課題解決の在り方を模索するためだ。ある人と意見交換が気持ちよく出来ないなら、無理に実行する必要もない。自己顕示欲や承認欲求を求めるがあまり、意見を通すことに躍起になって冷静さを失うことに何の意味もない。

自然体の自分を受け入れて、自分のアタマで考える。自分のために考えることで、主体性を軸に生きる。

この思考を持ってからが、本当のスタート。20代までは協調性を持つことを優先しなければならない場面も多かったが、もう我慢する必要なんてないなぁ…と思うようになってきている。

幸福活動を生産する

*幸福はいつも内側にあって

じゃあ自由に生きていいよ〜って言われても、今度は何を基準に幸せに生きたらいいか分からなくなる。

お金持ちになることが幸せ?、偉くなることが幸せ?、結婚して子供を持つことが幸せ?、ホントに?

側から見れば一見幸せそうにみえるけど、幸福かどうかは本人たちじゃないと分からない。いや、実際には本人たちも分かってないことが多い。他者依存や承認欲求で満たされていることが、幸福の状態だと認識してしまっているのであれば、少しずつ関係性に歪みが生じてくるのは当たり前で。

あれだけ望んでいたものでも、1度手に入ってしまえば幸福感を得られるのは少しの期間だけで。慣れてしまえば、大したことではないと思ってしまうようになる。だから、何をしている時が幸福で、どんな人といる時が楽しいのか、そういう部分をちゃんと考えて整理していかなくてはならない。一過性の刺激や、他者依存を幸福と定義するのは私には合わない。

他者の目線を排除して、自分のアタマで考え続けられる幸福の生き方をポートフォリオとして組むべき。他人の生き方を否定するわけではなく…幸福の在り方は人それぞれだから。

*何が正解か分からないから。

否が応でも歳をとっていくわけで、世間の風当たりは厳しくなるばっかりで、何が正解か分からなくて悩み続ける毎日はこれからもずっと続くわけで。

消費社会に争わなくては。目の前に見える取っつきやすい短期的な刺激ばかりを追い求めても、自分で幸福活動を生産することはできない。分かりやすいものに簡単に飛びつくばかりでは、内的世界は作れないと思っている。

だから、日々のアーカイブが重要だと私は思っていて。上手くいかないことも多いけど、そういうことも含めて全部アーカイブしていくことが、自然体の自分を受け入れて、幸福活動を作っていく土台になると信じてやまない。

自分のアタマで考えるとは、個人の幸福活動を生産すること。楽しいことも辛いことも全部受け入れて、自分が考える幸福活動とは何かを探求し続けること。そして、その幸福活動をアーカイブして誰かとシェアすること。

内的世界を軸に、多視点で日常の中にある幸福を発見し、幸福活動を探求し続けること。

ずっと考えてきたことってたぶんこれやわ。

だんだん理解が深くなってきたので、具体に落とし込んでいきたいところ。

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