日記

【日記】アーカイブをライフワークへ。

投稿日:2019年2月3日 更新日:

アーカイブと継続性

WordPressを使い始めて1年弱…

着想〜記事化するまでに作業時間がかなり短縮されてきた気がする。アウトプットまでの時間が短縮されるようになると、始動が早くなる。たぶん、これは取り掛かりの煩わしさが軽減されるため。無意識下で始動するためには、作業負担を軽減していくことだとつくづく感じる。

記事制作の時間短縮は、Wordpressの編集に慣れてきたのが1番。それと、ブログのデザイン構築がひと段落して記事の作成に集中できるようになったこと。見出しやカテゴリー、タグ、画像の編集/挿入、プラグインの導入など、当初は困惑した諸々の要素を不自由なく扱えるようになってきた。

万人に受けるデザインまたは内容なのかという切実なご指摘に対しては、ひとまず先送りにした上で…。

自分がブログで何をしているのか、メタ思考してみたい。

今まで感覚として、思考の吐き出し口(愚痴)と、音楽制作の試行錯誤を綴ったコンテンツに過ぎなかったが、何か違うわけよ。(プライバシー以外の)日常生活のあらゆることを記録(アーカイブ)し始めて、私には無かった"継続性"が発現してきてる。

これはもしかするとですよ。アーカイブと継続性って関連しているのでは?

創作サイクル

まだ、憶測でしかない。

先ほどの"アーカイブと継続性の関連"についてもっと具体的に記述すれば、「記憶や刺激を呼び戻すことによって、創作サイクルを無意識的に生み出している」ということ。

知識と技術がゼロベースの状態だと作業はなかなか進まないが、1度でも着手ことのあるタスクだと試行してみたくなるもの。これは"確認"に近い。この記事の最初に書いたことと近似しているが、"確認"したくなるというのは人間の性質かもしれない。

ブログで言えば、記事を見返している中で感覚や技術を呼び起こしていくうちに、無意識に確認してみたくなる。
それが始動に繋がる。これが「創作サイクル」なのだ!

例えば数ヶ月または年単位で作業をしていなくても、アーカイブによって当時の記憶を呼び起こすことで作業を再開できる。この場合は、アーカイブによって作業感覚を呼び戻すというより、創作意欲を呼び戻す意味合いが強いのかもしれない。

とにかく、アーカイブ化は飽き性の自分に合っているみたいだ。
自ら着手して、3年以上継続できたことってブログが初めてでは?(え?)

なんでもアーカイブ

考えてみればよ、私は、考えたのだけれども。

仕事でもなんでもやっていることって「アーカイブ化」じゃねえのか。資料作成から、交渉記録、あとは何だ?…でも、ほとんどが記録を残すことだと思う。特に事務作業やってる人って。

で、当たり前だけど記録の残し方って人それぞれ。アーカイブ化するコンテンツにもよるし、読み取る方の性質差があって文字認識がいいのか、画像認識がよろしいのか、一概には最適化できない。それに、アナログとデジタルのアーカイブの違いもある。私はデジタル派っぽい。

もしかしたら「アーカイブ能力」なるものが存在するのかもしれない。学校で教えてもらえなかったシリーズに追加してもいいかもしれない。創作サイクルを呼び起こすために、ブログ等のツールを活用する手段は持っていて損はしない。

友人と話していて始まった「写真」のカテゴリーなんかは、まさに風景のアーカイブ。私のブログでやっていることって全て同じで、記録(アーカイブ)を残していく作業だった。カメラも習慣にして、外出したら無意識的に撮る動作をセットしたい。

(ネットリテラシーを加味した上で)日常のあらゆること、食事でも習い事でも見た夢でもなんでもアーカイブする。気づいたことを文章でも画像でも具現化して、ネットに公開したらそれは既に創作物になってるのですから。ついでに創作サイクルを生み出している。また、過去のアーカイブに修正をかけて精度を上げてもいい。

そのためには「感性」が必要であって。日常で感じたあらゆることに対してどう感じたかってことが大事で。これには前回の日記で口酸っぱく書いた通り、"教養を頬張る"しかないのだ。

創作サイクルが自発的に動き出すと、気づいたらいい感じになるはず。
その1歩はアーカイブ化することなのでは?って、気づいちゃった☆

創作の呪縛から降りる

クリエイターってのは、覚醒コンテンツとしての価値、例えば「未知の表現による文化的刺激」、「弱者に寄り添った魂の救済」などが評価される。

その"呪縛"を解き放てずにアウトプットができない人も多いが、「記録を残しているだけ」と思えばいい感じで力が抜けるような気がするのです。漫画家なんかも、ひらたく言い換えればイメージや想像力を画像としてアーカイブしているだけで。表現力や画力を魅せたいってのは分かるけど、創作意欲が続かないと、やめちゃうわけですよ。

そう、これは結局モチベーションの話なんすよ(いま気づいた)
当然、継続するにはモチベーションが必要なんです。モチベーションを呼び起こす装置を持っておいたら楽。

ただ、これはあんまり意識しない方がいい気がする。
創作の呪縛から降りて、ただやっていて楽しい状態または暇つぶし感覚で「アーカイブ化」を続けていけばいい。長期間放置しても、またいつか再開すればいいくらいの感覚がいい。

だから、発想が逆なのだ。
「アーカイブすることによって創作は生まれる」今回も本当に言いたいことはこの1文で済んだのに(え?)
凄い作品が出来たからアーカイブするのではない。アーカイブの集積のうちに、大作が出来上がってゆく。

出来る限り情報をコンパクトに体系化しておくことによって、「次に回す」をしているわけ。
大体1回寝て見直したり、聴き直したら、修正したくなるもの。

修正の上塗りの果てに、何かが生まれるはず。

アーカイブをライフワークへ

「記録したい」という欲求

ブログ習慣がついてしまってから、「記録したい」が好奇心とモチベーションの中心にある。やりたいとか、やりたくないとかいう次元を越えて、「アーカイブしかやることねぇじゃん!」の状態になってから、次第に創作及びアーカイブ全般がライフワークへとなり始めた。大体何か作業をしているし、作業とアーカイブを同時進行できるように意識している。

ブログで自分の着想をコトバに出来るとさっぱりするし、感情を音楽や映像でアウトプット出来ると心の何処かが満たされる感覚がある。下手くそでも、自分の感覚で作品を生み出すことができると何か安心する。仕事では味わえない、表現の方法を試すことができる。

ブログでアーカイブの本質について何度も考察してはいるものの、音楽や映画を鑑賞するのと同じように、直感的/感覚的にアーカイブが好きだったりする。「何で記録しているの?」は愚問になりつつある。単に、好きだからという理由が大きい。

これは有難いことに、私のアーカイブに対するモチベーションに、他者からの関心はほとんど影響しないらしい。多くの場合、情報をシェアした後にそのレスポンスが返ってことに面白さを感じるのだろうけど、それがなくても全然いい。ってか自分のためにしかブログ記事を作ってないので、レスポンスがないのは当たり前体操ですね。

ノイズキャンセリング

なぜこうなってしまったかと反省するに、前述したように他に何もすることがないからで。昔みたいにテレビ見ても面白くないし、ゲームもそこまで長時間できないし、かといって仕事でアナログタスクばっかりやるのもしんどいんで、普段は"下手くそクリエイティブ"が作業に丁度良い。

これは、いわば「自分用にカスタマイズしたノイズキャンセリング機能を搭載した」ようなもの。最適化論での無駄なタスクを削ぎ落とすとか、アナログタスクを仕事にしない、なんてのも結局は「引き算の生き方」を実践していることに繋がって、シンプルな発想を軸に課題解決をしていく術は、仕事でもプライベートでも全てにおいて適応していきたい。

*人付き合いでは、虚無を埋められない。

ずっと言ってるように、公共スペースで狂気を発する人や、承認欲求や自己顕示欲を垂れ流しながら生きている人がキライだ。そういう苦手な人が近くにいるだけで、エネルギーが勝手にダダ漏れしてしまう。

人と関わることで孤独が癒されれば良いけど、人の好き嫌いが激しすぎて、残念ながら私はそういうタイプではないらしい。逆に、好きな人にはウザいくらい絡んで迷惑をかけてしまう。だから、人付き合いによって虚無を埋めようとするのはやめた。

もう少し年齢を重ねれば、人付き合いで無駄にエネルギーを消費することも無くなるのだろうか…。今のこの感じだと、積極的に関わりを持つイメージが掴めない。人間として欠損している…。

これもアレやねん。孤独論で纏めてきた着想が軸にあって、「何を元に自分を定義するか」をタモリから諭されたことに始まる。

*一過性の感情かどうかを判断する。

それと、ドーパミンが作用する一過性の欲求に対して、冷静に見極められるようになってきたのもある。

麻酔コンテンツはこの世界に必要で、今を生きるためにはある程度の刺激がないと生き続けられない。そして、人生は究極的には暇つぶしであることは、その通りだと思う。

でもその暇つぶしの中で、例えばYoutubeではドッキリ企画とか、余りあるお金で何かを買ってみたとか…要はあまりにも自分の幸福が何かについて考えずに、そこにある短期的な幸福ばかりが目につく。ドーパミンを消費することの連鎖で、生活を成り立たせるのは私には到底デキナイ。

一過性の感情を冷静に排除するか、または時間をかけずにさっと処理してしまうのがいい気がしている。自分がやりたいことにアクセスするためには、まずはノイズキャンセリングを始めるのも間違ってはいないと思っている。

良いものを作りたいの前に、良い作業フローを作る。

まだまだ、"最適化"の道のりは長い。今回も、制作フローについて考察していきたい。

クリエイティブな作業を始めてからというもの、その作業フローを突き詰めて考える機会が増えた。やりながら思うのは、そのような自由度の高いタスクを実行する場合、とりあえずアウトプットをして、初めは基本となる制作フローを抽出することを目指してもいいのかもしれない。つまりは、良いものを作りたいの前に、良い作業フローを作ることから考えてみてもいい。

事務処理タスクの場合

この前、「事務処理タスクのフロー」を纏めたけど、それをクリエイティブな作業にも適応できないかと目論んでいる。一旦、思い出すために以下に示す。

*事務処理タスクのフロー(簡易版)
①:作業時間の見積もりを、ある程度正確に設定する。
②:課題解決するための仮説を複数立案し、最適な打ち手を決定する。
③:ロジック構築のための情報を、短時間で抜き取る。
④:意思決定に必要な資料作成を、素早く実行する。

この手順は、ある程度汎用性があると思っているけれど、成果主義のクリエイティブな作業に関しては、少し修正が必要で。独学で自由度の高い創作活動を進行していくためには、「アウトプット」を軸にしたフローに修正する必要があると思う。

創作活動の場合

というわけで…
先に示した事務処理タスクのフロー(簡易版)を修正して、成果主義のクリエイティブな作業verを拵えた。

*成果主義をターゲットとした制作フロー
①:品質は求めず最短距離でとりあえずアウトプットし、基本となる制作フローを抽出する。
②:作品を構成している要素別に、仮説を複数立案する。
③:最適な打ち手を取り出せるよう、汎用性を持ち合わせた形で打ち手を整理しておく。
④:パラメータをさらに細分化し、複数の選択肢から意思決定を素早く実行する。

成果主義にプラオリティを置くと、こんな感じ?これでやってみて、ダメだったらまた修正するかも。

いまを閉じ込める。

とりあえず、アウトプット!

多くの偉大なクリエイターが、創作活動は「質より量!」と唱えている。成果主義を信仰し、どんな形であれアウトプットをし続けることが、技術習得への最短ルートであるらしい。

私は①の「とりあえず、アウトプットする」が苦手だ。創作活動のような自由度の高い作業の場合、作業途中または構想段階で頓挫してしまうケースが多い。作業途中で気分が変わってしまい、作品の方向性を見失うこともしばしば…。

クリエイティブな作業は、成果物に対しての作業フローの自由度が高いのに、フィーリングで作るイメージが強いため、論理を排除する傾向にある。多分これは、「作品は感性が全て」というイメージが先行していることが理由にある。たしかに「誰が/何を/どう感じるか」によって、作品のテーマや表現の在り方が変わってくる。個々の気質に影響するものがほとんどで、「なぜそう感じるか」は論理的に説明できないものが多い。好きとか、嫌いとかは感覚的/直感的なもので、フィーリングは大事。

一方で、「その感覚をどう表現するか」については、ロジックを展開させて意思決定にスピードを持たせるべき。クリエイティブな作業の多くが、今の感覚を作品に閉じ込める作業で、それにはどうしても意思決定のスピードがいる。つまりは、制作フローにロジックを構築する必要がある。

閉じ込める作業

「現在の自分の感覚を、どうすれば表現できるか」ということを、自分でカスタマイズした制作フローに従って、的確に素早くアウトプットする。それには、ある程度の選択肢を持たせた上で、自分の感覚と一致する条件を選び出す事のできる、整理された打ち手のリストが必要。

意思決定を決めるスピードと、作品のクオリティを上げることは相対することでないと考えている。作品のクオリティを上げるためには、課題解決のための仮説を出来るだけ多くリストアップし、その中から最適な打ち手を決定する。作品のテーマとそれを実現するための手法を、一定の根拠に基づいて、多くの仮説の中から選定出来るようになれば、作品のクオリティは向上し、自分の感覚を作品に投影することも可能になる。

というわけで、今後の作業を具体的に当てはめてみたいのだが、また記事が長くなってきたので、それは次回にしよう。

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