日記

【日記】自分があるとか、ないとか。

投稿日:2018年12月1日 更新日:

師走です

今年も師走がやってきました

去年の暮れから今年まで、今まで経験したことない類の壁に直面して、それから自分の本質や適性について、自分のアタマで考える機会が増えた。これもブログを続けてきたおかげ。
この体験については、自分が他者を救済する際の備忘録として残しておいた方がいいと思うので、また別記事で綴りたいと思う。

あと、また12月になったので今年の反省/来年の抱負を綴った"忘年会"を実施したい。その前段的な内容を。

何が変わったのか

それで何が変わったのか。前の記事でも同じこと書いてるけど。

(仕事上の)知識や能力がいくらあったとしても、人類は皆アホでスケベで甘ったれだ。人は皆いつか、社会的ニーズを失ってシガラミのない世界へ帰着する。

このマインドが定着してから、年齢や役職をそこまで意識せずにコミュニケーションが図れるようになり、会話がぐっと楽になったと実感している。それも結局のところ、実存のゼロ地点から見た場合の、どんな本質を持っているのかを実感しながら対話できる力がついてきたからだと思っている。

具体的に言えば、礼儀作法は守るものの、相手が誰であれ自分の対話姿勢を変えないようになった。好き/嫌いに関するアンテナはさらに感度が上がったが、心を落ち着かせて会話ができる人については、以前よりもより深く、相手の本質を見ながら会話できるようになったと思う。

相手の本質を判断しているのは確かに主観でしかないが、主観以外に何があるのか。自分の適性については考察を深めているので、自分目線で好き/嫌いの人間適性を見抜いていくのは間違いではないと思う。そもそも自分の適性を分かってない人が多いことは、前の記事でも書いた。

またもう1つ、このマインドから救われているのは、仕事の失敗などどうでもいいということ。それに、失敗して足掻かないと私の場合はダメだ。むしろ、失敗に寛容になるというか、失敗を恐れずに打ち手を気軽にアウトプットできるハードルの低い環境を作り、それでいて出来ないことは出来ないと判断/発言できるマインドへ変化させていくようにはなりたい。それはまだこれからの課題。自分のアタマで創造ができないことは死を意味する。それを体験した。

本質とは

私が考える面白い人ってのは、「自分があって、自分がない」ような人のことかもしれない。

・自分がある:好奇心や本能を働かせ、出来るだけ"誰かのため"に行動している。
・自分がない:エゴがない。環境を最適化するためには、道化師にもなれる。つまりは、個を消すことができる。

この両方のバランスを取れている人は稀有。あんまりいない。逆に、どっちも持ってる人と話すと物凄くその人を好きになれる。嫌いになる人も多いけど、好きな人もいるからいいや。相手のことを尊重しながら何気ない対話ができる時、人間としての本質に共感できる。相手を好きになることができる。幸運なことに、そういう人が周りにいてくれる。

自己主張はダサい

あるサイトで。
「人付き合いで疲れないためには、はっきりと自己主張できる人になる」って書いてあったけど、絶対に違いますよ(断言)しかも、その傾向のある人は幼少期に親の愛情が足りなかったとか、マジでバカにしてんのか?

あなたの自己主張が下手だからではない。世間一般が言う"言語の自己主張"ができなくたっていい。機能価値求めて組織内でマウント取るためにおちゃらけてるくらいなら、むしろ出来ない方がいい。

そんな世間の機能価値に囚われたらいけん。そこに合わせようとするから好奇心が失われていく。そして最悪なのはあなたにしかない感性が削られることなんや。
むちゃくちゃ言ってくるやつって、あなたの気持ちなんか考えようとしてない。それなのにあなたはペースを向こうに合わせて、自己否定のタームに入ってはダメ。会社で求められている知識や能力なんてずっとバカにしてろ。

つーか、自己主張ってなんですか??
もうこの世の中、自己主張の時代じゃない。自己主張なんてしなくていい。そんな義務なんてない。
無理して自己主張してるやつダサいって時代に来てますよね、どう考えても。自然発生的に、静けさのある狂気かダダイズムでないと一般人の自己主張はダサく見える。

言葉だけで意見を発する文化が狭いし古いし、そもそも対話は自己主張ありきじゃないから。
例えば「常に外部刺激を追い求めて態度に表明している人」や「狂気を撒き散らす人」、「想像力が閉じている人」と一緒にいて疲れるだけで。会話の内容がどうでもいいから介入しないだけで。疲れると思ったら無理して会話に入らなくていい。

気持ちが汲み取ってもらえないならそれ以上深追いする必要なんてない。一緒にいてなんとなく辛いなら早くそこから離れる。
人付き合いが辛い理由を明確には言語化できないこともある。好きとか嫌いとか、感覚的なものであるし。
引き寄せの話になってしまうが、"嫌"を近くに置いておくべきでない。ちょっとでも感じたら、とにかく離れる。

自己主張をして承認欲求を得る方法は、直接的な言葉の対話でなくてもできますよ。
そういう世界が実は沢山ありますよ。だから頑張って教養を学びましょうよ。袈裟世界をあの世から眺めよう。狂気と慈愛に感動しよう。

個を消して、浮かび上がらせる

思考停止のススメ。大駱駝艦・田村一行が語る「空っぽ」の重要性

上の記事の中で、これまでブログで綴っていたことと合致する部分が多々あり、共感できる。

例えば「自己紹介してください。あなたは何者ですか?」と問われたら、名前とか、国籍とか、父親の仕事とか、いろんな視点で自分のことを説明しようとしますよね。要するに、自分の周りにある物事でしか、自分っていう存在は表現・説明できないんです。じゃあ、もしも「本当の自分」を露わにするために、自分を説明する外的な要素をどんどんはぎ取っていくとしたら、最後には何が残るのか? それは僕にとっての関心でもあるんです。

大駱駝艦の表現思想の中で、裸になる・全身を白塗りになることは「個を消す」ことだと。シガラミを削ぎ落としたことで、個(アイデンティティ)が浮き彫りになる。

白塗りってやっぱり不思議なものだと思います。「個を消す」ために、剃髪して、裸になって、白塗りする側面もありますが、そうすることで「個」が余計に浮き立ってどんどん外に出てくることもある。自分の身体の内側で、普段の自分と、完全に異質な自分が同居していて、押し引きするんです。

今年火がついた「カメラを止めるな」でも、無名の役者を使うことが評価されていた。有名な役者を使用するより、知らない役者が出演している方が先入観なしで映画に没頭できる。

アイデンティティのお話

内的世界を作ることができたら、ナニカに没頭すれば救われる感覚を培うことができる。"救われる"というのは宗教体験にも似ている感覚。

「他者に依存しない救い」を育んでいる人は、自分に自信などいらない。「この世界が面白いと思える視点を持っている」と確信できれば、誰に何を言われようが関係ないから。

孤独論というタイトルで、4回も無駄な記事を綴ってきたが、整理していくと"アイデンティティ"のお話だった。
自分とは何か?、自分を形成するにはどうすればいいのか?、何によって自分を定義するのか?、自分は何がしたいのか?孤独と正面から対峙すると、アイデンティティを深掘りすることになる。ここだけは逃げちゃダメ。

そして多くの人が、自分を定義するために"シガラミ"を欲する。それは社会で生きるための処世術ではあるが、消費行動のサイクルからは抜け出せない。ヒモを結んでは解き、世間の目に焦点が合っていることを把握していないのだ。

ブログで一貫して解いているのは、むしろ「個を消す領域」に踏み出すべきだということ。(シガラミの中での)自己主張なんていらない、周囲との関係性、肩書き、年齢で自分を定義してはいけない。削ぎ落として、恥をかいて、バカになって、個を消すことによって、本当の自分が浮かび上がってくる。

平凡で生きていていい。型にはまった人生でいい。人と違う視点や、自分だけの特性を何かを知りたいのなら、個を消してみることだ。実存のゼロ地点から世界を眺めてみる。

個が無くなった先

人それぞれ生き方があるので、個を消すメソッドは誰しも共感できるアイデアではないと思う。多分、私にはこの思想/価値観が合っているのだと思う。

「自分とは何か」が必要無くなったら、自然体で人とコミュニケーションできる。自分をこう見せたいとか、こういう風に思われたいとか、つまり承認欲求がない。自分がないから、誰かに認められたいと思わない。人に説教しようとも思わない。自分にとってこの考え方は非常に楽なのだ。

内的世界からパワーを貰って、自分を空にして、他人に与えることを選択し続けたい。

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